1896年の今日、クララ・シューマンが76年と8カ月の生涯を終えました。彼女に徹底したピアニスト教育を施した父によって命名されたその名は、ラテン語の形容詞クラールス(Clarus)に由来する「光」の意です。まさにクララは、二人の偉大な作曲家シューマンとブラームスの「光」でした。
9歳年長の夫ロベルト・シューマンとの結婚生活は実質14年に満ちませんでしたが、少女時代から兄妹のような愛情を育みあい、作曲する者同士として楽想を共有し、やり取りしあい、作品を捧げあう一方、父親の偏執的な猛反対を乗り越えて結ばれた、稀有なるカップルでした。シューマンの有名なピアノ協奏曲イ短調は、Claraのイタリア名で『謝肉祭』の1曲でもある Chiarina キアリーナ のつづりの音名「C-H-A-A ドーシーララ」をモティーフとして、全編、切々とクララに呼びかける曲です。
その結婚生活の終わりも近い時期、1853年の10月1日に、夫妻の前に突如出現したのが、敬愛するシューマンの批評を請うべく、自作品を携えて、デュッセルドルフのシューマン家の呼び鈴を振るえる指で押した、20歳のヨハネス・ブラームスでした。
ブラームスの才に驚嘆したシューマンは、長く遠ざかっていた音楽評論のペンを久々にとって、「そのゆりかごを恩寵の女神と英雄の守護された若者」とブラームスを紹介し、「時代の最高の表現を理想的な仕方で表現するように天職づけられている」とまで、その楽才を絶賛し、出版社に強く働きかけて、作品出版の労を取ります。ました。これにより、無名青年は世に出ることができました。
ところが、それから5カ月も経たない1854年2月27日、降りしきる雨の中、ガウンのまま外に飛び出したシューマンは、ライン河に身を躍らせたのです。一命はとりとめたものの、ボン郊外エンデニヒの療養所に入所して、二度とそこを出ることなく、1856年7月29日、ひっそりと息を引き取りました。
1年半近くの療養生活の間、シューマンの気持ちを亢ぶらせることを懸念した医師の指示で、面会のできなかったクララに代わり、たびたびシューマンを訪問しては、便箋やたばこなどを差し入れ、クララや子どもたちの近況を報告したのはブラームスでした。
夫の療養費と7人の子どもたちの生活費、教育費をまかなうために演奏旅行に明け暮れるクララの留守宅をあずかり、子どもたちの相手をしたのもブラームスでした。
下の写真の中央はシューマン家の長女マリー、立ち姿は次女エリーゼ、その前が三男フェルディナント、その前が四女オイゲーニエ、マリーの左が次男ルードヴィヒ、抱かれているのが四男フェリックス。(長男エミールは夭折、三女ユーリエは病弱のため家族と離れて転地中)
人生で最も困難なこの時期、14歳年下の若者の無私の献身に、どれほどクララが助けられたことでしょうか。当然、二人の間にはある種の感情が高まり合います。けれども、ロベルトを送った年の夏、息子二人を伴い、ブラームスの姉も誘って、5人でスイス旅行に出かけたクララとブラームスは、山の清新な空気の中で真摯な話し合いを重ねたのでしょう、友人同士の道を選び取ったのでした。
ところで、クララの生涯と作曲家としての業績を長らく研究してまいりまして、以前に楽譜を2冊、出版させていただいております。ピンクの表紙の方は、クララだけではなく、ファニー・メンデルスゾーンやリリー・ブーランジェ、といった女性作曲家の作品のオムニバスで、紫の表紙の方は、クララとロベルトが互いに相手の主題を用いて書き献呈しあった変奏曲に、ブラームス作曲の『ロベルト・シューマンの主題による変奏曲』も付録として付けた、作品による三者の伝記物語です。
「今朝、ヨハネスが発った。停車場から帰宅したときは、葬式から帰ったような思いがした」
と書いているほどです。
でも、この辛い選択は、長い目で見ると、二人にとって賢明であったばかりではなく、後世のわたくしたちにとっても、大作曲家と名ピアニスト&シューマン作品伝播者を、歴史に戴くことのできた好結果につながっているように思えます。下は、ブラームスの親友の大ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムと共演するクララの姿を描いた絵で、切手にもデザインされています。
クララとブラームスの、決して平坦ではなかった友情の道のりは、1896年の今日5月20日にクララが没するまで続きます。クララとブラームスは14歳年が離れていますが、その年齢差は晩年には縮まるどころか、ブラームスはクララを追い越したようです。下は、ともに1894年の二人です。
2020年5月20日記
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