53日の拙ブログでは、全国唯一感染者ゼロの岩手県の秘密を、地道な努力のできる誠実な県民性と、若くして逝った同県出身の石川啄木(18861912)と宮澤賢治(18961933)のみたまに守護されているからではなかろうかと推測させていただきつつ、文京区小石川4丁目の啄木終焉の地の訪問記を書かせていただきました。すると、本日、盛岡の啄木記念館主任学芸員の佐々木裕貴子さまよりご連絡があり、今朝、お撮りになったばかりの、同館のお庭に建つ啄木像の写真を送っていただきましたので、是非、ご覧いただきたいと思います。

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 すがやかな、北国の5月の朝、清新な空気のなかで、はかま姿の啄木は教え子の手をとって、しっかりと眼と眼を見かわし、無言の励ましを与えています。賢治が一定期間、農学校の教師を務めたことは皆様もご存じでしょうが、啄木も20歳の頃に1年ほど、渋民尋常高等小学校の代用教員として教壇に立っていた時期がありました。啄木像は、その時代の彼の姿をブロンズ像として表現したものです。その後、函館、札幌、小樽、東京本郷と小石川を転々とし、26歳の若さで没した啄木にも、純朴な教え子たちに囲まれたこんな穏やかな時代があったことに心がなごみます。

 先日の記事に、啄木短歌に越谷達之助が曲をつけた『初恋』をご紹介しましたが、肝心の短歌を載せておりませんでした。本日、あらためて、ここに記させていただきます。

砂山の

砂に腹這ひ 初恋の

いたみを遠く 思ひ出ずる日

 砂山に腹這って、世の雑事をしばし忘れようとしているときに、ふと、甘くほろ苦い初恋の思い出が遠い日のこととしてよみがえってきて、胸の奥に疼きを覚える啄木。


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 越谷達之助の曲は、歌人の心情にやさしく寄り添う名旋律です。     

この短歌は、1910年、24歳で出版した第一歌集『一握の砂』の収載歌のひとつです。早熟の天才、啄木はすでにこの5年前に結婚していましたので、娘が一人いて、『一握の砂』出版の2カ月前には息子が生まれたものの、生後3週間ほどでその息子を亡くしています。 
 啄木自身も小石川の地で、1912年4月13日、26歳の短い一生を終えることになります。前月には、その同じ家で、母親のカツさんが同じ肺の病で亡くなっていました。
 啄木の死のとき身重であっった妻節子さんは、6月14日に次女を出産します。節子さんがを啄木の忘れ形見の娘二人を無事に育て上げてくださったのなら、まだ救いがあるのですが、姑と夫を看病した彼女が、二人の命を奪った病から逃れられるはずもありませんでした。
 啄木の一周忌の翌月、節子さんは世を去りました。遺児たちは節子さんの母トキと妹孝子に育てられたものの、トキさんと孝子さんも節子さんを看病していたために同じ病に倒れ、早く亡くなられました。
 啄木のお嬢さん二人はなんとか成長されましたが、長女京子さんは24歳のとき、次女房江さんは19歳のときに短い生涯を終えられています。おそらく、ご両親らと同じ病であったようです。
 石川家と、節子さんの御実家・堀合家の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 人類が、現代とは比較にならないほど、病に無力であった時代の、とても残念な実話ですが、それから一世紀近くたった今、わたくしたちは、憎むべき病と闘う手段を持っています。
 病そのものの治療と撲滅は、専門のお医者様にお願いするとして、予防と、感染防止は一人一人の自覚によって可能なことです。引き続き、気持ちを引き締めて、みんなで病を封じ込めてまいりましょう。

                         2020514日記・5月17日追記