本日5月12日は「プラハの春音楽祭」の開幕日のはずでした。1946年に創設50周年を迎えたチェコ・フィルハーモニー管弦楽団は、チェコ国民音楽の父、ベドルジフ・スメタナの命日にあたるこの日を開幕日とする音楽祭をスタートさせ、毎年、オープニング・コンサートでは、6曲からなる連作交響詩『わが祖国』全曲演奏を常としてきました。
それほど、『わが祖国』全6曲は、苦難の人生を歩みながらも、チェコ人のチェコ人によるチェコ人のための音楽に金字塔を打ち立てたスメタナの代表作であり、失聴後の晩年に、渾身の力を振り絞って後世に残した、形見の祖国絵巻でもあります。
スメタナは、1824年3月3日、ボヘミア東部リトミシュルという町のビール製造業者の家庭に生まれました。第11子にして初の男児でしたので、ヴァイオリンを愛奏する父親から特別に可愛がられ、学業よりも音楽を愛する夢見がちな少年に成長します。
19歳のとき、わずか20グルデン(約2万円)を懐に首都プラハに出たスメタナは、貧苦に耐えながら音楽修行を続け、トゥーン伯爵家の音楽教師の職を得ます。
1847年、26歳の時、トゥーン伯爵家の地位を恋人のカテルジナ・コラールジョヴァーに譲り、コンサート・ピアニストを目指しますが、さほど成功せず、プラハに音楽学校を開きます。このとき、一面識もない無名の青年からの援助を請う手紙に温かく応え、快く力を貸してくれたのは、ヨーロッパ音楽界の巨匠フランツ・リストでした。おかげで、音楽学校が軌道に乗ったスメタナは、1849年10月27日、プラハのステファン教会で愛するカテルジナと結婚式をあげました。夫婦仲は円満で、4人の娘が生まれます。けれども、3人までもが少女期に世を去ってしまいました。特に、早くから楽才を示していた長女の死は彼に大きな打撃を与えます。このとき書かれた『ピアノ三重奏曲ト短調』には彼の悲しみが色濃くにじんでいるようです。
スメタナの祖国チェコは、16世紀以来、隣の大国オーストリアの支配下にありました。それがこの頃になると、ボヘミアの人々の民族意識が急速に高まり革命運動が盛んになります。若きスメタナも強烈な民族意識に燃え、音楽を通じての民族主義の実現ということを考えるようになりました。
けれども、民族意識が高まれば当然、それを抑圧しようとする勢力も強大化します。そのため、スメタナにとってボヘミア国内は次第に活動しやすい場所ではなくなってくるのです。そんなとき、スウェーデンのイェーテボリ音楽協会が彼を指揮者として招いてくれました。そこで彼は、長女の死の悲しみを払しょくしたい気持ちもあってこの招きに応じ、1856年、まず単身で赴任し、翌年には妻子もこの北国に呼び寄せたのでした。
この地で、彼は仕事にはたいへん恵まれました。その一方、もともと病弱な妻カテルジナは、慣れぬ気候風土に健康を害して1859年の春には重篤となります。
「もう一度、ボヘミアの山や川を見たいの。草原の風に吹かれたいわ」
彼は、うわごとのように、故郷への思いばかりを口走る妻を馬車に乗せ、帰郷の旅にのぼりました。旅程のおよそ9割、そう、9割まで達したドレスデンに辿り着いた4月19日、夢にまでみたボヘミアを目前にして、カテルジナは32歳の若さで彼をおいて旅立ったのです。
涙を払った彼は、プラハを拠点に新たな音楽活動を開始しました。それは、自国の民族主義に根ざした音楽の創造でした。
当時、ボヘミアではドイツ語が強制され、学校教育もドイツ語でおこなわれていました。なまじ、学校へなど子どもを通わせない庶民育ちならば、チェコ語を普通に話せますが、スメタナの家は中流知識階級でしたので公教育を受けていました。そのため、彼はチェコ語の読み書き、会話ができなかったのです。
このことは、民族意識に目覚めた彼にとって大きな恥辱でした。そこで彼は努力して母国語を習得し、1866年にはチェコ語台本によるオペラ『売られた花嫁』を完成させ、これを初演しました。
革新陣営から歓迎されたこのオペラは、当然、保守反動陣営からは目の仇にされて、スメタナも攻撃の矢面にさらされました。けれども彼は敢然と闘い、自国語による自国のオペラ上演のための劇場を建てようと、血の汗を流して奔走しました。その努力の結晶であるプラハ国民劇場は、妨害勢力と闘いながら13年後にようやく竣工しますが、なんと2年後、原因不明の火が出て、焼失してしまいます。
彼の落胆と失意は、いかばかりだったでしょうか。あまりに気の毒で、涙を禁じ得ません。
この頃、彼は再婚していましたが、この2度目の妻は心の冷たい女性で、家庭も彼の安らぎの場とはなりませんでした。
1874年の初夏のある夕暮れ時、森の中を散歩していた彼は、どこかで誰かの奏でるフルートの調べを聴きつけます。どんな人が吹いているのかと、彼はあたりを捜してみましたが、奏者をみつけることはできませんでした。それからというもの、毎日、その時刻になると同じ音が彼の耳の奥で鳴るようになり、やがて絶え間のない耳鳴りが彼を襲い始めました。
このようにして、スメタナは完全に失聴します。その聴力を失った晩年、1874~79年にわたり、祖国の歴史と風物への限りない愛をこめて書き上げたのが、6曲構成の連作交響詩『わが祖国』でした。
連作交響詩《わが祖国》
第1曲〈ヴィシェフラド〉 モルダウ河東岸にある古城の城跡。
第2曲〈ヴルタヴァ(モルダウ)〉 ボヘミアに水源を発しプラハ市内に流れ込む大河。
第3曲〈シャールカ〉 チェコの伝説の女性戦士。
第4曲〈ボヘミアの森と草原より〉ボヘミアの美しい自然を描きます。
第5曲〈タボール〉 15世紀にフス戦争の拠点となった町の名。
第6曲〈ブラニーク〉 フス団の勇士たちがたてこもった丘の名。
◎第2曲:ヴルタヴァは川の一生物語です。今日はこれを紙芝居風にご紹介します。
この曲はしばしば『モルダウ』と呼ばれていますが、Moldauとはこの大河のドイツ語名、チェコ語ではヴルタヴァ(Vltava)ですので、こう呼んだほうが作者の意に適います。
ヴルタヴァには、二つの水源があります。山の奥の湧き水の、冷たい方の水源をまずフルートが奏でて曲が始まります。「ミ♯ファソ♯ファソラシ、ミ♯ファソ♯ファソラシ」いかにも、ちょろちょろと湧き水の迸るようなこの音型は、実はこの後に、立派な形を成す川の主題「(シ)ミー♯ファソーラシーシー、ドードーシー」の赤ちゃん形です。
次いでクラリネットが加わりますが、これはもう一つの水温の高い方の水源です。両水源が合流して川の上流を形成して、川らしい姿となったところで、前述の川の主題が堂々と現れます。
「川の主題」部分はリピートされ、約3分弱のところから6/8拍子のまま、金管管楽器が活躍する明るく勇ましい曲調となって「森の狩猟」に入ります。川岸の森での狩りの様子をホルンの角笛が表現します。ここは約1分です。
突然、陽気な2拍子になったところからが、「川岸の村の婚礼の踊り」です。チェコの代表的舞曲ポルカです。
これが完全に鎮まると、4/4拍子になり、曲の最も美しい部分「月の光、水の精の踊り」に入ります。ハープも活躍して夜の川の淵が描かれます。月光に照らされてきらきらと輝く水面に、水の精が現れて神秘的に踊ります。
夜が明けると、川は淀んだ淵から再び勢いのよい流れとなり、6/8拍子の「川の主題」が謳歌されます。そして最大の難所「聖ヨハネの急流」に差し掛かりました。岩に砕け散る波しぶきが目に浮かびます。ここが全曲のクライマックスです。
この難所を無事に抜けた川は、ついに堂々たる大河に成長してプラハ市内に流れ込んできました。
そして、川は、東岸の古城跡ヴィシェフラドに親しげな挨拶を送ります。これは、西岸のプラハ城とは全く別の、もっと上流の東岸に、跡地だけ残って今は公園になっている中世の伝説的なお城の名前です。
この「ヴィシェフラドの主題・6/8シーーーーーミーーーーーーーー♯レーーシーーーーー」は第1曲に出てきた主題の再登場で、ちゃんと前の曲と関連付けられています。この主題がこれまた、高らかでまことに誇らしく、チェコにはこのような歴史があるのだ、というスメタナの矜持が感じられて、曲がここに差し掛かると、いつも胸が熱くなります。川はさらに進み、最後は二つの和音でエルベ河に合流して終わります。
このように、第2曲『ヴルタヴァ』は音で描いた川の一生絵巻にほかなりません。作者が聴力を失いゆく中で書いたものとは、到底信じ難いほど、それぞれの情景がありありと目に浮かんできます。実景描写主体でできているこの曲が、全6曲中もっともわかりやすいことは確かですが、他の5曲も、少しチェコの歴史背景や伝説を知ると、なるほどと、すらりと耳に入ってきます。
プラハの春音楽祭開幕日、スメタナの命日である今日こそ、是非、全曲通して、お聴きいただきたいと思います。
ヴァーツラフ・ノイマン(1920~1995)指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏でいかがでしょうか。
ノイマンに限らず、その師匠であるヴァーツラフ・ターリヒ(1883~1961)、ノイマンと同じくターリヒ門下のカレル・アンチェル(1908~1973)、あるいは、ヴァイオリニストのヤン・クーベリックを父に持つラファエル・クーベリック(1914~1996)といった名匠たちも、それぞれ味わい深い演奏を聴かせています。
どうぞ、チェコの指揮者&チェコ・フィルでお聴きくださいませ。
2020年5月12日記
コメント
コメント一覧 (3)
宮沢賢治も『モルダウ』を愛聴したようですが、E.クライバー指揮ベルリン国立歌劇場の演奏であったようですね。これは、なかなかの美しい名演です。
賢治の頭の中では、「やわらかに柳青める」北上川もイギリス海岸も、新生代第三期のプリオシン・コーストも貫いて、きっとモルダウが流れていますね。つまり『銀河鉄道の夜』の中の銀河も、その銀河を映す地上の、カムパネルラの溺れた川も。
『モルダウ』で私が思い出すのは、青春時代に聴いたフルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルのあのゆっくりとした源流の水の流れを示すようなフルートから始まる演奏です。自然の心が「静」から「動」へと移ろう瞬間、「0」から「1」へと命を持ち始める瞬間を捉えているような不思議な演奏です。
これを聴くと、フルトヴェングラーの心はもちろんスメタナの心にも、ベートーヴェンが生きているなと思ったものです。つまり聴力を失ったベートーヴェンが『田園交響曲』で行ったこと──どの楽章もそうですが、特に第二楽章「小川のほとりで」で行ったことが、脈々として後の世の音楽家の心に流れ入っているなと思ったのです。(つづく)
yukiko3916
がしました
ずっと後になってからのことでしかも絵画ですが、同じチェコ出身の画家でアルフォンソ・ミュシャの描いた『スラヴ叙事詩』の大作壁画20枚を見た時も、頭の中には『我が祖国』が鳴っていましたが、確かミュシャは『我が祖国』に刺激を受けてこの叙事詩的な大作を描いたはずです。
絵画と音楽とを問わず、今時『日本叙事詩』を描ける芸術家がいますかね? もちろん国粋主義とか右翼とかそういう狭量なことではなく、民族の中心を流れる川のような軸を、見据え貫くということですが。
yukiko3916
がしました
音による叙事詩、そう、ミュシャですね。スラヴの壮大な叙事詩。新国立美術館でため息とともに見ました。
偉大な芸術家が、自分のidentityをこうした形で刻むことに畏敬の念を覚えます。
スメタナは、1874~75年に『わが祖国』の4作目まで書いて、一旦、中断があり、『タボール』と『ブラニーク』は1878年と1879年にそれぞれ成立しました。この中断の期間に、彼は、今度は、川の一生物語ではなく、みずからの一生物語を弦楽四重奏曲という形で綴っていたと思うと、泣けてきます。いずれ、この話題も書きたいと思います。
ご丁寧なご感想とお励まし、ほんとうに、ありがとうございました。
yukiko3916
がしました