世を戦慄せしめるこのたびの流行り病は、多くの方々の尊い命を奪いました。悲運にも、命を落とされた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。その一方、英宰相のように、この病から恢復され、お仕事現場に復帰なされたお方もおられます。その稀有なるご体験は、必ずや、病める者や社会的弱者に篤い配慮のできる善政へと、反映されることでしょう。
わが国の宰相も、ウィルス性肺炎でこそありませんでしたが、10余年前に胃腸の難病を患われ、政局から一旦退かれました。ご武運長久にも、薬石効あって病を克服なさり、めでたくカムバック、その後、長期政権を築かれて、今では「レストランのお庭に桜があっただけ」「神社参拝は三密ではありません」、あるいは、突然学校をお休みにして保護者を大混乱に陥れておいて、得々として「有給休暇を取りやすいように対応してください、と要請します」などの世迷言を連発される、迷宰相となられました。
この方には、ぜひ、病のお苦しみと快癒されたときの感謝のお気持ちを今一度思い起こしていただき、弱き者にやさしい政を心がけてくださることをお願いしたく存じます。そのために、どうか、本日の1曲をお聴きくださいと、心よりお勧め申し上げる次第です。
今から195年前に、この方と同じく、重い胃腸の病に苦しんで、創作のペンを置かねばならなかったどころか、死をも覚悟したベートーヴェンは、その病から癒えたとき、神と、おそらく周囲の方々への感謝の気持ちを、この上なく崇高な音楽の言葉で紡ぎ、その謝意を音楽史に永遠に刻みました。
その不滅の名曲こそ、弦楽四重奏曲第15番作品132の第3楽章『リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌』です。
第3楽章は、5楽章構成のこの弦楽四重奏曲の中心楽章で、古い教会旋法のひとつ、リディア旋法という、第4音が半音高い古風な音階で書かれています。曲は、不思議な浮遊感とすがすがしさのあるゆったりとした部分から始まり、それが次第に力を増していって「新しい力を得た"Neue Kraft fühlend" 」と注釈されたニ長調の決然とした部分に入り、両部分の交代で進みます。重篤の底から光射す方向へと向かっていき、新たなエネルギーの満ち満ちるようすは、口や筆に尽くせないほど感動的で、重い病に罹ろうとも、きっと、爽やかな恢復の朝を迎えることができるのだ、という希望のパワーを、聴く者に与えてくれます。
病はいつか恢復するもの、暗闇を手探りで歩く日々も必ず明るい出口を迎えることができる、その時は神に感謝を捧げるのだ、というベートーヴェンの励ましを、ぜひ、この名曲から聴きとっていただきたく存じます。
お薦め名盤を選ぶのは至難でしたが、もしかしたら、ベートーヴェンその人もそうであったかと思われるほど武骨な演奏で、残響の少ない硬めの響きながら、語り口の真実さ、内容の深さで独特の位置を占める、ブダペスト弦楽四重奏団の1961年の録音などいかがでしょうか。
往年の全集名盤では他に、ブッシュ弦楽四重奏団(1937年)、バリリ弦楽四重奏団(1956年)、ジュリアード弦楽四重奏団(1969~70)、ヴェーグ弦楽四重奏団(1973年)などがあり、いずれも一聴に値します。
新しい録音で、作品132のみの便利な一枚物としては、アルティ弦楽四重奏団(2015年、EXTON、豊嶋泰嗣、矢部達哉、川本嘉子、上村昇)の魂の震えるような演奏がございます。
ユーチューブ等で手軽にお好みのものがお聴きになれます。ベートーヴェンの病からの快復の喜びは落涙を禁じ得ないほど感動的で、自粛の日日を力強く励ましてくれること、請け合いです。
2020年5月10日
コメント
コメント一覧 (4)
また、さながら与謝野晶子の精神を継承されたような、時の政権・政策にたいするやんわりとサビの利いた風刺や諧謔、まことに我が意を得たりです。
近頃は我が国の若者や男性諸君には、こうした風刺や諧謔、戯画やパロディー、エスプリやパンチの効いた批判などはほとんど見られず、あたかも都市生活者の中流の消費文明に去勢され、長年の国内平和に平和ボケし、毒気をすべて希釈されたかのような無害無毒・干からび状態ですので、本ブログからは一陣の涼風、心の潤いももたらしてくれます。
ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲第15番、いいですね。特に第三楽章のモルト・アダージョ、リュデイア調の旋律からは、病から快癒し、じっと目を閉じて日の光の有り難みを感じているようなベートーヴェンのたましいが伝わって来ます。どこか古代ギリシアを超えて、太陽を礼拝した古代エジプトの王のような古い根源的な、始原の感謝と悦びが波のように、あるいは降りそそぐ日の光のように伝わって来ます。
この内省が終わると、彼は心も軽くまるで春の野に駆け出すように、自粛から解放された魂のように勇んで飛び出すのですが、間もなく訪れる第二波、一陣のつむじ風によって、まるでダンテ『神曲』の地獄篇のような冥界へ向かう渡守の舟で、あの哀愁に満ちたバルカローレとともに波間を渡ってゆくんですね。しかし、その時やはり太陽の方角から、光の波動が、迅速な救済の羽ばたきがやって来る!
まさに、楽聖の人類への救済の思いが、この楽聖の記念の年、人類を、嵐を潜り抜けたより一層高い世界へと導かんことを!
yukiko3916
がしました
それにつけても、ベートーヴェンの音楽が、これほどまでに今の世相というか、その源を流している政治の情けない姿への鋭い警鐘となっているのは、まさに、sapporo1972さまの聴きとられておられる深い本質を具えているからに違いない、という想いを、新たにいたしました。きわめて高い鑑賞力にあふれ、宇宙的な広がりを持つ作品解釈、ありがとうございました。多くの示唆を受けております。
yukiko3916
がしました
例えば『英雄』なら、これからの人間におけるヘロス(英雄)というものの意味は何か?それは明らかに人間であることは間違いないのだが、どういう人間か?何を成し遂げるのか?これを問い、かつ答えているように思います。『運命』なら、運命というものは在るのか?運命をすべて自分の手で切り拓き超克できると思っている近代人にとって、才能ある近代人にとって、なおも運命はあるのか? 『田園』なら、もちろん自然と人間の音楽(調和=ハルモニア)における共存ですから、それは当然「地球温暖化」の問題にまで直結しますし、『第七』ならばリズム、すなわち産業革命以降の機械文明メカニズムと人間の中の躍動、舞踏、リズムの反復によるディオニュソス的なものがどう共存できるのか?があります。『第九』ならおそらく、交響曲と合唱の止揚共存、音楽と人間の結婚のようなものから、宇宙のカオス、天上の星辰の法則と人間との響和の問題までを追求・表現しています。
だからこの弦楽四重奏曲第15番は、ただ単に自分の病からの快癒のみを描いたものではなく、総じて人類が病というものを克服して、自然の賜物としての健やかさを再度獲得した時、そこからどう歩みどんな浄化へと歩み入らなくてはならないのかを、音をもって表現したと思えるのです。
だからまさに、お察しの通り、この曲はこの度の全人類的(パンデミック)なウイルス禍のためにも書かれています。さすがベートーヴェン。転んでもただでは起きません。人類のために、何ものかを収穫するまでは。
yukiko3916
がしました
楽聖の守護する年を襲ひしが、汝が悪行の運の尽きかな
yukiko3916
がしました