日々、残念な数字が報じられる中、感染者ゼロを更新している唯一の県、岩手県に拍手を贈ります。2013年に『宮澤賢治の聴いたクラシック』(小学館)を上梓させていただき、取材を通じて岩手県贔屓となった身としては嬉しい限り。もしかしたら、若くして結核に春秋を絶たれねばならなかった、啄木(享年26)と賢治(享年37)のみたまが、われらの命に代えて郷土の民を護りたまえ、と、ふるさとを庇護しているからではないかと思えてきました。その護りが、岩手県のみならず、全国つづ浦々に及ぶことを祈るばかりです。
実は、かつての通学路のすぐ近くに、「石川啄木終焉の地」というシンプルな石柱が建っていて、「ここであの啄木が亡くなられたのか」と感慨にひたったものでした。2年前に生家の地に戻りましたので、その石柱に会いにいきたいと思いつつ、なかなか機会がないままでいたところ、このたびの世情の騒ぎにより、思いがけず散歩の時間が増えました。そこで、昨夕刻、懐かしの通学路、片道約2キロを歩き、記憶する場所をどきどきしながら訪ねてみました。
すると、あたりのようすはすっかり変わっていて、あの石柱は見当たらず、その代わりに、ある会社施設らしい建物の入口の壁面に「石川啄木終焉の地」の銅板額が掲げられ、そのお隣の高齢者施設の敷地の片隅に、大きな三角形の御影石を二つ割りした「啄木終焉の地歌碑」が建立されていました。
そこには、啄木のおそらく最後の作とされる2首が、原稿用紙を模した石板に彼の筆跡で刻まれていました。啄木独特の、3連行スタイルです。
呼吸(いき)すれば、
胸の中(うち)にて鳴る音、あり、
凩(こがらし)よりもさびしきその音!
眼閉づれど
心にうかぶ何もなし。
さびしくもまた眼をあけるかな
さらに、その高齢者施設の内部の一室に「石川啄木顕彰室」まで設けられていました。ただし、このご時世ですから、こちらは無期休館。外から、ロゴだけ撮影してきました。
それにしても、いつ、これほどのものができたのだろうか。前の石柱はどうしたのかしら、と、必死に取材していると、お声をかけてくださる方があられました。
すぐお向かいにもう80年以上もお住いの清水正さんとおっしゃる方で、
「あなたが熱心なようすなので、これをみせてあげましょう。もう2部しかないので差し上げられなくて申し訳ないけれど」
と、この歌碑と顕彰室の設置経緯を綴ったリーフレットを示してくださいました。
「拝見できるだけでありがたいこととです」
手に取らしていただき、目を走らせるうち、
「そんなに啄木に関心をもってくださるなら、自分の1部を残せばいいから、1部をあげましょう」
こうして、思いがけず貴重な宝物をいただきました。
そのリーフレット「啄木と文の京(ふみのみやこ)」には、啄木が終焉の日々を過ごした小さな借家を記憶する清水さんの昔語りも掲載されていました。
そして、わたくしが小中学生時代に慣れ親しんだ「終焉の地」の石柱は、昭和42年に建てられたけれども、何と!!、その後、いつのことかは書かれていませんが、周辺工事の際に撤去されてしまい、なかなか再建されないのを心配した、啄木愛好家、国際啄木学会、小石川地区の住民らが声をあげ、文京区に働きかけた結果、平成27年3月に歌碑と顕彰室が設置されたとの経緯が記されていました。
本当にびっくりいたしました。
わたくしが最後に、以前の石柱をみたのはいつのことだったのだろうか。いつ、どなたが、どなたの許しを得て、撤去などという狼藉に及んだのか。
だって、「石川啄木終焉の地」は昭和27年に東京都の旧跡に指定された、と書いてあるのに、それを撤去だなんて、東京都さんは「いいですよ。どうぞ」とおっしゃったのだろうか。どういうお約束になっていたのか。なぜ、なかなか再建されなかったのか。その期間はどれくらいの長きに及んだのか。民間が声を挙げなければ、行政はいつまでもご存じない振りをお続けになるおつもりだったのか。
疑問は次々に湧いてきました。
しかしながら、5年前にようやく建てられた立派な歌碑と高齢者施設の内部に設けられた顕彰室、お隣の建物に掲げられた銅板額は、新たな「啄木終焉の地」シンボルとなり、毎年ご命日の4月13日には、全国から啄木ファンが訪れるそうです。記念碑撤去の暴挙と長い不在期間の悲しさを感じずにはいられませんが、再建に力を尽くされた方々の労ありて、今日のスタイルになったことに安堵、皆様のご尽力に心より感謝を捧げさせていただきます。
そうそう、最初の謎、岩手県はなぜ、ゼロ数字を更新できているのか?
答えの一つもここにございました。再建協力者の中には、渋民村の石川啄木記念館の佐々木裕貴子さま始め、岩手県関係者も多いもようです。その地道で粘り強い努力のできる県民性も、ゼロ数字の秘密ではないでしょうか。
最後に、本日の1曲は、啄木短歌に越谷達之助が付曲した名歌『初恋』です。
「啄木歌曲、初恋」の検索ワードでさまざまな動画があがります。
お好みの歌唱でお聴きになり、自粛の日々を甘酸っぱく彩られてはいかがでしょうか。
2020年5月3日
コメント
コメント一覧 (2)
まさに自らの足で稼がれた取材。心あらばこそという感じがいたします。
東京都であろうが国であろうが、心なければそれまでのこと。岩手県民であろうが、介護施設の方であろうが、心あらばそれはまさに“心から心へと至らんことを!”(ベートーヴェン)の願いとともに、思わぬ人の心にまで至りますね。
岩手県の感染者0も、もちろん啄木や賢治の撒いた心の種の開花ではありますが、これはやはりイーハトーブ的な人間と自然の共存が生みだした果実。感染しているのは総じて、過度な都市文明・経済文明の地域のみです。ノーベル生理学賞の大村智博士ではありませんが、岩手県人の爪の垢の中から、新しい抗原抗体へのヒントが見つかるかもしれませんね。厚生労働省、すぐ取材しなくちゃ。
故郷の天才啄木が26で夭折した時、賢治は16歳。青春真っ只中でしたから、感ずるところは大きかったでしょうね。まさに、一粒の種地に落ちて死なずば…ですね。
yukiko3916
がしました
本歌取りの啄木像のページに、付記を加えましたが、神は啄木一人をお召しになられたのではなく、彼の直前に母親、1年後に妻、その少し後に、妻の母と妹、さらに、遺児二人までも天に連れ去りました。
つい一世紀と少し前の日本の、医学、公衆衛生学がこれほど残念なものであったことは、まるで悪夢のようです。
昭和8年の賢治も同じ病ですものね。もちろん、一粒の麦は、死して大きな芽を出しましたけれども、二人とも、永らえていたら、さらなる文学遺産を残してくださっていたでしょう。偉大な方たちの、早すぎる死を無駄にしないためにも、お上は医療体制をもっとしっかり整え、平時から防疫学や医学、薬学に研究開発費を出し惜しみせず、科学の総力をあげて、このたびの憂い事に打ち勝ってほしいものです。
yukiko3916
がしました