入賞者表彰式とその会見から一夜明けた6月8日、堀米ゆず子審査委員長を記者、評論家が囲んで、じっくりとお話を伺う機会がございました。やはり、前の晩の慌ただしい会見でも触れられたように、モーツァルト演奏がいかに難しいか、マスター・ピース・コンチェルトのほうは良く弾けていても、モーツァルトが残念なコンテスタントが多かった、というのが、総論的なお話でした。そのように見ていくと、結局、第1位に相応しい方がおられなかった、と言うことになります。
審査員11名。この方がたが、順に、「第1位は出しますか、出しませんか」「第2位は……」と採決していかれ、第1位については、出す方に入れた審査員が4、出さない方に入れた審査員が7、ということで、第1位空席となったということでした。
第2位以下については出すことになり、審査員ご自身の生徒に関しては棄権して、それ以外の審査員で投票し、全く公正な投票数によって、順位が決まったそうです。
モーツァルトの難しさについては縷々、語られ、それはやはり、まだ10代も多いコンテスタントのせいではなく、その先生がしっかり教えるべきことであるともおつしゃられました。
エリザベート王妃コンクールの覇者で同コンクールの審査員を何度も務められ、ブリュッセル音楽院教授の要職にある堀米先生のお言葉は、すべて、深い深い意味が感じられました。
その後、上位3名による、ガラ・コンサートがありました。
第4位:リ・ジンジュさん シベリウス
第3位:ジャン・アオジュさん チャイコフスキー
第2位:ムン・ボハさん ブルッフ『スコットランド幻想曲』
3名とも、審査のときより、のびのびと自分を表現しておられました。
夜の打ち上げパーティーのあと、最後から2番目のはやぶさで帰京しました。
2025年6月9日記
審査員11名。この方がたが、順に、「第1位は出しますか、出しませんか」「第2位は……」と採決していかれ、第1位については、出す方に入れた審査員が4、出さない方に入れた審査員が7、ということで、第1位空席となったということでした。
第2位以下については出すことになり、審査員ご自身の生徒に関しては棄権して、それ以外の審査員で投票し、全く公正な投票数によって、順位が決まったそうです。
モーツァルトの難しさについては縷々、語られ、それはやはり、まだ10代も多いコンテスタントのせいではなく、その先生がしっかり教えるべきことであるともおつしゃられました。
エリザベート王妃コンクールの覇者で同コンクールの審査員を何度も務められ、ブリュッセル音楽院教授の要職にある堀米先生のお言葉は、すべて、深い深い意味が感じられました。
その後、上位3名による、ガラ・コンサートがありました。
第4位:リ・ジンジュさん シベリウス
第3位:ジャン・アオジュさん チャイコフスキー
第2位:ムン・ボハさん ブルッフ『スコットランド幻想曲』
3名とも、審査のときより、のびのびと自分を表現しておられました。
夜の打ち上げパーティーのあと、最後から2番目のはやぶさで帰京しました。
2025年6月9日記
コメント
コメント一覧 (4)
モーツァルトの協奏曲について、先生は各コンテスタントの演奏を好意的に紹介されていましたが、審査員からは厳しい評価だったようですね。この場合、よく言われるモーツァルトの難しさとは何なのか、今回の結果から振り返って先生のお考えはいかがでしょうか?
ことに若い人には先生がもっとしっかりと教えるべきという真意がよく分かりません。何を教えるというのか、フレッシュな感性や技巧にのみ頼って安易に取り組んではいけないという戒めなのか、それではどのような演奏がモーツァルトにふさわしいというのか(グリュミオー、クレーメル??)、疑問は尽きません。
yukiko3916
が
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また、わたくしの綴った演奏紹介文のなかには、ポジティヴな形容もありますが、それは一般的にはポジティヴな言い方であっても、モーツァルトではそれはいかがなものか、という逆説的暗喩を込めて書いた部分もありました。
とはいえ、モーツァルトの難しさとは何なのかを言葉で表現するのは、それこそ至難ですが、敢えて言葉にいたしますと、弓の着地点が即ち、ましん でなければならない。同じく、左の指の押さえ位置も、ぴたりとそこでなければならない。どちらも、コンマ、コンマ、何ミリでも違うポイントに着地、もしくは左指が押さえてしてしまったら、そこから、にじり寄って直すことはできるとしても、赤裸々に露見してしまう、そういう難しさかと思います。
音の数が少ない中で、音そのものの美しさと音程の良さは絶対的に求めらますし、ヴィヴラートの種類と用いる箇所、かける多寡も問われるでしょう。
若いコンテスタントが、モーツァルトらしからぬモーツァルトを弾いたら、それは本人の責任ではなくて、彼、彼女を今教えておられる先生が、モーツァルトのあり方をきちんと教えていないせいである、という堀米先生のお言葉は、こうしたモーツァルトの根幹部分の教えが足りていない、という意味なのだと思います。
yukiko3916
が
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ただ実演を聴いていないので何とも言えないのですが、中国、韓国の音楽教育の在り方とも関係するのかもしれないという気もします。あるいは音楽観に微妙な違いがあり、それらを超えてモーツアルトかくあるべしという言説は個人的にはどうかという思いがあります。
つまり、ヴァイオリン技法に関しては、ハイフェッツが完璧で、ティボーやシゲティの音程や弓使いはほぼ論外ですが、それではハイフェッツの演奏がモーツァルトのあるべき姿なのか、ということです。
あるいは、イザイが若き日の天才メニューインに音階練習の不足を厳しく指摘したように、モーツァルトに関しては若いうちはまず基本をしっかりと抑え、自己表出や表現はそれからという審査員たちの教育的信念なのでしょうか。いずれにせよ、これがコンクールの限界というものなのかも知れません。
yukiko3916
が
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ヴァイオリン技法に関しては、ハイフェッツが完璧で、ティボーやシゲティの音程や弓使いはほぼ論外ですが、それではハイフェッツの演奏がモーツァルトのあるべき姿なのか、ということです。
と、お書きくださいました、まさに、そこが、今改めて問われるべきかもしれません。
思うに、1901年生まれ、まさに20世紀の申し子ハイフェッツ以降、狭義のテクニックは日進月歩ですから、ヴィルトゥオーゾ・ピースは、もはや、勝負の土俵とならず、では何を問うか、の観点で、モーツァルトに原点を求め、モーツァルト演奏のあるべき姿で判断しようとする、そういう尺度が、狭義のテクニックのアンチテーゼとして、いま、おおいに重視されている気がいたします。
往年の大家は、おそらく、理屈ではなく、感覚的にそれを知っていたのです。
yukiko3916
が
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