昨日の記事の補足です。このたびのロスアンゼルス、パリセーズの大火により、シェーンベルクのご子息のお宅と、彼の作品に特化した出版社が被災されたことをお伝えしましたが、その出版社ベルモント・ミュージック・パブリッシャーズは、1951年にシェーンベルクが亡くなられたあと、奥様のゲルトルートさんが創設した会社でした。
シェーンベルクより24歳年下のゲルトルート夫人は1898年生まれ。、彼の弟子のヴァイオリニス、ルードルフ・コーリッシュの妹で、1923年にシェーンベルクの最初の奥様マティルデさんが46歳で亡くなった翌24年に、結婚されました。
26歳のゲルトルート夫人との再婚は、50歳になったシェーンベルにとって、この上なく幸せなものでした。
「これほど幸せであることが許されるのはなぜか、私には分からなかった」
彼の言葉です。
亡くなられたマティルデ夫人は、友人ツェムリンスキーの妹でシェーンベルクの3つ年下。1901年に結婚なさった時はもちろん、相思相愛であったのでしょうし、女の子と男の子も生まれて平穏な家庭生活を営まれていたはずですが、1908年、夫妻と親しく交遊していた若い画家、ゲルストルさんのもとへ出奔してしまわれたのです。
ベルクやウェーベルン、周囲のひとたちに諫められ、彼女は数カ月後にシェーンベルクのところへ戻りましたが、それを悲観したゲルストルさんは自ら命を絶ちました。
事件がシェーンベルクの心にどのような影を落としたか、本人以外にはわかりまん。
けれども、ゲルトルートさんが二度目の妻となってくれた時の彼の言葉が、全てを物語っているように思います。
ゲルトルートさんは、亡命直前に長女を、西海岸に移ってから男の子二人も生んで、家庭生活の喜びを彼に与えてくれました。
そして、夫が亡くなると、その作品のみを扱う音楽出版社を立ち上げたのです。
ゲルトルートさんは1967年に亡くなられていますが、事業は引き継がれ、今回の被災にも負けずに、作曲家の業績を21世紀にますます輝かせようとしています。
2025年1月16日記
シェーンベルクより24歳年下のゲルトルート夫人は1898年生まれ。、彼の弟子のヴァイオリニス、ルードルフ・コーリッシュの妹で、1923年にシェーンベルクの最初の奥様マティルデさんが46歳で亡くなった翌24年に、結婚されました。
26歳のゲルトルート夫人との再婚は、50歳になったシェーンベルにとって、この上なく幸せなものでした。
「これほど幸せであることが許されるのはなぜか、私には分からなかった」
彼の言葉です。
亡くなられたマティルデ夫人は、友人ツェムリンスキーの妹でシェーンベルクの3つ年下。1901年に結婚なさった時はもちろん、相思相愛であったのでしょうし、女の子と男の子も生まれて平穏な家庭生活を営まれていたはずですが、1908年、夫妻と親しく交遊していた若い画家、ゲルストルさんのもとへ出奔してしまわれたのです。
ベルクやウェーベルン、周囲のひとたちに諫められ、彼女は数カ月後にシェーンベルクのところへ戻りましたが、それを悲観したゲルストルさんは自ら命を絶ちました。
事件がシェーンベルクの心にどのような影を落としたか、本人以外にはわかりまん。
けれども、ゲルトルートさんが二度目の妻となってくれた時の彼の言葉が、全てを物語っているように思います。
ゲルトルートさんは、亡命直前に長女を、西海岸に移ってから男の子二人も生んで、家庭生活の喜びを彼に与えてくれました。
そして、夫が亡くなると、その作品のみを扱う音楽出版社を立ち上げたのです。
ゲルトルートさんは1967年に亡くなられていますが、事業は引き継がれ、今回の被災にも負けずに、作曲家の業績を21世紀にますます輝かせようとしています。
2025年1月16日記
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