1月7日に、ロスアンゼルス、パシフィック・パリセーズほか数個所で発生した山火事がまだ鎮火されていません。
 アルノルト・シェーンベルクのご子息ローレンス・アダム・シェーンベルクさんのおうちと、彼の作品専門の出版社ベルモント・ミュージック・パブリッシャーズもこの猛火の被害に遭われたとかで、同社のアルヒーフにあった自筆譜や、多くの貴重な資料類が灰になってしまったとのことです。被害に遭われたお孫様一家と出版社の方たちに心よりお見舞いを申し上げます。
 シェーンベルクは、ベルリンのアカデミーで作曲を教えていましたが、ナチスの魔の手が迫ってきたので、1933年5月17日夜、2度目の妻ゲルトルートと10日前に生まれたばかりの娘ドロテア・ヌーリアちゃんとともに慌ただしくベルリンを発ってパリへ亡命します。パリにしばらく滞在してユダヤ教に再改宗した後、ル・アーブルから船に乗り、10月31日にニューヨークに到着しました。この時から、アメリカが彼の第二の国となったのです。
167_1934_Album2-5

 当初は東海岸に住んで、ボストンとニューヨークのモールキン音楽院で音楽理論と作曲を教えていましたが、34年の9月にロスアンゼルスに移り、51年7月13日に没するまで同地で暮らし、二度とドイツに戻ることはありませんでした。ロサスアンゼルス移住後の37年に、男の子
ロナルド・ルドルフさんが生まれ、41年にもう一人の男児で今回被災された、ローレンス・アダムさんが生まれています。
 彼の没後、遺品、資料類の一部は、その家で家族が引き継ぎ、自筆譜や遺稿などは出版社が管理していたわけですが、ほとんどが炎に飲み込まれたようです。
 でも、84歳のロナルド・アダム・シェーンベルク氏は「パシフィック・パリセーズの火災は、シェーンベルクの物理的な遺産を保管していた
ベルモント・ミュージック・パブリッシャーズに打撃を与えましたが、これによって、同社は、デジタル時代の新たな一歩を踏み出すことになるでしょう。シェーンベルクの影響力は、今後のデジタル時代にさらに輝くでしょう」と、おうちを失いながらも、それにめげない声明を出しておられます。
 きっと、焼失前に多くの楽譜がデジタル化されていたのでしょう。
 そうはおっしゃるものの、原本が焼失してしまった無念さは、お察しして余りあります。もちろん、おうちが焼けてしまった、悲しみと悔しさも。
 この山火事では、多くの貴重な人命も失われています。
 謹んでお悔やみ申し上げると共に、一刻も早い鎮火を願ってやみません。
                                 2025年1月15日記