昨日のブログに書きましたように、昨5月24日の晩はサントリーホールブルーローズで開かれた,宮﨑貴子さんの「ようこそ、女性作曲家の世界へ」演奏会に出掛け、マリア・シマノフスカ、ヨハン・ネポムク・フンメル、フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(ヴォルフガング・アマデウスの下の息子)、フレデリック・ショパンの作品を聴いてまいりました。
 単に珍しいというだけではなく、それ自体が優れ、また、時代感をよく映し出した作品をまとめて拝聴できて、たいへん意義ある時間でした。  
 そして、宮崎さんのお弾きになった楽器が、1867年製エラールという貴重なフォルテピアノだったことも大いに注目されました。
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 前回のリサイタルでも、宮崎さんはこれを使われました。だいぶ前のリサイタルの時は会場も違い、楽器もこれではありませんでしたが、近年、宮﨑さんがこのサントホールブルーローズにリサイタル会場を特化されたのは、同ホール所蔵のこのフォルテピアノによきパートナーを見出されたからでしょう。
 1867年と言えば、明治維新の前年、慶応2/3年です。
 エラールは、かのリストが愛奏したことでも知られるピアノで、1867年にはリストは56歳の壮年期。このピアノには、リストの助言が採り入れられていたかもしれません。  
 そんな歴史的な、エラールのフォルテピアノがなぜ日本に伝わったかと言いますと、これは、福澤諭吉のお孫さんの進太郎氏が、パリで結婚したギリシャ人声楽家、アクリヴィさんのためにパリで購入され、一家で帰国されるときに日本へ持ち帰られたものだったからです。
 1916年、ギリシャ人のご両親のもと、トルコ領に生まれたアクリヴィさんは、パリ音楽院で声楽の勉強をなさっていたときに、パリ大学に留学中の進太郎氏と知り合って結婚、1945年に戦争が終わった後、御夫君、まだ幼いご長男、そしてこのピアノと共に日本へ渡られ、日本の音楽界に多くのフランス歌曲を紹介されるとともに、東京音楽大学で後進の指導にも携わられた方です。
 パリ生まれのご長男というのは、1969年(昭和44年)2月12日に静岡県袋井市のヤマハテストコースで行われていたトヨタのレーシングカー「トヨタ・7」のテスト走行中の事故によって25歳の若さで亡くなられた、レーシング・ドライバー、福澤幸雄(さちお)さんです。
 幸雄さんはこのピアノを聴いて育ち、おそらく、ご自身でもお弾きになったこともあったでしょう。
 2001年にアクリヴィさんが帰天されたあと、このエラールの名器は、福澤家からサントリーホールへ寄贈されて手厚いメインテナンスが施され、昨晩のように、この楽器を特に希望される演奏家のために供されています。
 弾きこなすには、専門技術が必要ですが、宮﨑さんはお見事なわざを身に着けておられ、ブルーローズのホール空間によく似合う、深みと温もりのある響きを立ち昇らせておいででした。
                               2024年5月25日記