本日、インタビューの仕事で井の頭公園駅至近のスタジオへお邪魔することになり、駅に着きました時に少し時間が早かったので、せっかくここまで来たのだからと、駅隣接の井の頭公園に足を踏み入れました。武蔵野の面影をそのまま残す、冬枯れの公園の落ち葉を踏んでいくと、まもなく池が見えてまいりました。風情ある石の橋もかかり、水面にはカモが遊びます。
池の終わりは、橋を境に落差がついて、小さな小さな滝になっています。そこに碑が立っていて、「ここが神田川の源流です。神田川は善福川、妙正寺川と合流して隅田川へ注ぎます」と書かれていました。隅田川へ注ぐということは、その先はどーっと太平洋に流れ込むということなのですね。
この立札の在る所から、神田川の細い流れが始まっています。
これが神田川の始まり、川の赤ちゃん、かと思うと、なんとも感動してしまい、スメタナの『モルダウ(ヴルタヴァ)』の、フルートの開始フレーズを思い浮かべました。
どんな大河も、始まりはこのようにささやかな、しかし、生命力にあふれる水の動きなのだと痛感いたしました。
2024年1月16日記
池の終わりは、橋を境に落差がついて、小さな小さな滝になっています。そこに碑が立っていて、「ここが神田川の源流です。神田川は善福川、妙正寺川と合流して隅田川へ注ぎます」と書かれていました。隅田川へ注ぐということは、その先はどーっと太平洋に流れ込むということなのですね。
この立札の在る所から、神田川の細い流れが始まっています。
これが神田川の始まり、川の赤ちゃん、かと思うと、なんとも感動してしまい、スメタナの『モルダウ(ヴルタヴァ)』の、フルートの開始フレーズを思い浮かべました。
どんな大河も、始まりはこのようにささやかな、しかし、生命力にあふれる水の動きなのだと痛感いたしました。
2024年1月16日記
コメント
コメント一覧 (2)
浮かんでくる音楽は「モルダウ」。それもフルートのあの開始のフレーズ。それをうかがって思い出したのは、宮沢賢治の『雁の童子』の中の一場面。人の世界に疲れて熱を発した童子が、「お父さん、水は夜でも流れるの?」と聞くと、須利耶さまが「水は夜でも流れるよ。水は夜でも昼でも、平らな所でさえなかったら、いつまでもいつまでも流れるのだ」と応えると、童子の脳から熱が引いて安眠できたというあの場面。「モルダウ」のもたらすものは、何かそれと通ずるものですね。
パリの大都会で活躍した19世紀最大のイラストレーターとも言えるアルフォンソ・ミュシャ。彼がスメタナの『我が祖国』を聴いて、晩年故郷のチェコに帰り、大作「スラヴ叙事詩」という20枚の巨大絵画を完成したことも思い出されます。(日本に来た時に観ました。)
能登の大震災もそうですが、ガザのことと言いウクライナのことと言い、人類のこの永久の至らなさを思う時、人類の源流に帰り、そこからもう一度人類の歴史を辿り直してみたくなりますね。その点で今年2024年がスメタナとブルックナーの記念年であるというのは救いです。ブルックナーもまた、スメタナとは別の意味で、人類の源流を思い起こさせるような原始の霧、原始のトレモロから始める作曲家でした。
yukiko3916
が
しました
川という、悠久の生命の誕生を目の当たりにして、厳粛な気持ちになりました。
賢治の《雁の童子⦆読み返して見ます。
yukiko3916
が
しました