10月22日は、わたくしの大尊敬する、フランツ・リストさま(1811-1886)のお誕生日です。本日の東京がさわやかな秋晴れとなりましたことを嬉しく思います。
19世紀のスーパースター、フランツ・リストさまは、1811年10月22日、ウィーンの南南東70~80キロに位置する、当時ハンガリー領であった小村ドボルヤーンに生まれました。ここは現在、オーストリア領ブルゲンラント州のライディングですが、往時とそれほど変わらない静かな村だそうです。
父のアダムは大貴族エステルハージ家に仕える領地管理人で、大の音楽愛好家。自分でも楽器を演奏し、息子に手ほどきしました。アダムの12歳年下の母アンナは特に音楽にゆかりはなくとも、心優しい、おおらかな性格の持ち主。リストはこの両親の間の一人っ子でした。
両親ともにドイツ系だったので、リストはドイツ語で育ちますが、1822年に一家でウィーンに出て、翌年からはパリで生活したので、フランス語も得意で、日常的にはフランス語を使っていました。よくハンガリー生まれと言われますが、このように家系的にもハンガリー系ではなく、ハンガリー語は生涯ついに習得しませんでした。
リストについては、お話したいことが山のようにございますが、わたくしがもっともこの方を尊敬するゆえんの一つに、後進の面倒を非常によくみられ、自分を慕って来る若い音楽家たちからレッスン料などという、矮小なお金をとらずに教えたことがあります。この写真はリストの73歳のお誕生日、彼を囲むお弟子さんたちと撮ったものです。ローゼンタール、ジロティ(ラフマニノフの従兄)、ゴッドシャルク……錚々たるお顔触れです。
さらに、スメタナやグリーグなど見どころのある若者がいると、多額の旅費まで送ってワイマールの自邸に招き、世に出るお手伝いをしました。ハンガリーの大洪水時には、いち早く、各地でチャリティー演奏会を開き、多額の寄付を寄せました。
ボンにベートーヴェンの記念碑を建てる話が出たとき、どこの国も団体も個人も、口では大賛成と言いながら、ろくにお金を拠出しないのをみて、建立費の大半を黙って負担したのもリストでした。
このような、太っ腹で親分肌のところがわたくしは大好きです。
こんなことは、スタンドプレーでできることではなく、ご自身もまさに、身を切る思いだったはずですのに、そんな愚痴などこぼされませんでした。
友人ワーグナーがドレスデン革命に連座してお尋ね者となった時期に、彼の亡命生活を支えたのもリストでした。この間のワーグナーの収入は、リストからもらう生活費とお小遣いだけでした。リストは『ローエングリン』の初演までしてあげました。
それなのに、ワーグナーは、大恩を仇で返しますが、最後は和解しています。
続きはまた。
2023年10月22日、フランツ・リストさま212歳のお誕生日に記
19世紀のスーパースター、フランツ・リストさまは、1811年10月22日、ウィーンの南南東70~80キロに位置する、当時ハンガリー領であった小村ドボルヤーンに生まれました。ここは現在、オーストリア領ブルゲンラント州のライディングですが、往時とそれほど変わらない静かな村だそうです。
父のアダムは大貴族エステルハージ家に仕える領地管理人で、大の音楽愛好家。自分でも楽器を演奏し、息子に手ほどきしました。アダムの12歳年下の母アンナは特に音楽にゆかりはなくとも、心優しい、おおらかな性格の持ち主。リストはこの両親の間の一人っ子でした。
両親ともにドイツ系だったので、リストはドイツ語で育ちますが、1822年に一家でウィーンに出て、翌年からはパリで生活したので、フランス語も得意で、日常的にはフランス語を使っていました。よくハンガリー生まれと言われますが、このように家系的にもハンガリー系ではなく、ハンガリー語は生涯ついに習得しませんでした。
リストについては、お話したいことが山のようにございますが、わたくしがもっともこの方を尊敬するゆえんの一つに、後進の面倒を非常によくみられ、自分を慕って来る若い音楽家たちからレッスン料などという、矮小なお金をとらずに教えたことがあります。この写真はリストの73歳のお誕生日、彼を囲むお弟子さんたちと撮ったものです。ローゼンタール、ジロティ(ラフマニノフの従兄)、ゴッドシャルク……錚々たるお顔触れです。
Franz Liszt and some of his famous students in Weimar, 22
October 1884, his birthday.
From the left upper row: Moritz Rosenthal, Viktoria
Drewing, Mele Paranioff, Franz Liszt, Annette Hempel-Friedman, Hugo Mansfield
Lower row: Saul (Sally) Liebling, Alexander Siloti,
Arthur Friedheim, Emil Sauer, Alfred Reisenauer, Alexander Wilhelm Gottschalg
(Louis Held Im Alten Weimar Fotografien 1882-1919, Weimar 2008)
さらに、スメタナやグリーグなど見どころのある若者がいると、多額の旅費まで送ってワイマールの自邸に招き、世に出るお手伝いをしました。ハンガリーの大洪水時には、いち早く、各地でチャリティー演奏会を開き、多額の寄付を寄せました。
ボンにベートーヴェンの記念碑を建てる話が出たとき、どこの国も団体も個人も、口では大賛成と言いながら、ろくにお金を拠出しないのをみて、建立費の大半を黙って負担したのもリストでした。
このような、太っ腹で親分肌のところがわたくしは大好きです。
こんなことは、スタンドプレーでできることではなく、ご自身もまさに、身を切る思いだったはずですのに、そんな愚痴などこぼされませんでした。
友人ワーグナーがドレスデン革命に連座してお尋ね者となった時期に、彼の亡命生活を支えたのもリストでした。この間のワーグナーの収入は、リストからもらう生活費とお小遣いだけでした。リストは『ローエングリン』の初演までしてあげました。
それなのに、ワーグナーは、大恩を仇で返しますが、最後は和解しています。
続きはまた。
2023年10月22日、フランツ・リストさま212歳のお誕生日に記

コメント
コメント一覧 (2)
その音楽は決して技巧倒れのショウピースにとどまることなく、晩年に向かうにつれて深みを増し、曲によってはほとんど無調にまで達します。その生涯のうちに古典派から現代音楽までをふくむ稀有の音楽家だったと言えるでしょう。
一方、ショパン、シューマンをはじめとする友人たちや才能ある後進の音楽家に対し惜しみない励ましや援助を与え、晩年は僧籍にあって多数の弟子たちを育て、現代につながるピアニストたちの源流となっています。
このようなリストの生涯を支えたのは、少年のころのベートーヴェンとのただ一度の出会いにあったと私は思っています。
「ベートーヴェン回想」(柿沼太郎訳編)という本に晩年のリストの回想が載っています。先生のチェルニーに連れられてベートーヴェンを訪れた11歳のリストは、バッハの平均律からハ短調フーガを、さらにそれを移調して見事に弾きこなし楽聖を驚かせます。「巨匠の黒ずんだ燃えるような瞳が、刺し通すように私に注がれた。」さらに許しを得て楽聖の曲を弾くと、ベートーヴェンはリストを両手で抱き額に接吻して、おだやかに告げました。「しっかりやれ!幸運なやつだ。お前は多くの人たちに喜びと幸福を与えるだろうから。世の中にこんな立派な美しい仕事はない。」この話を涙を浮かべ遠くを見つめるような眼で語ったリストは、「私の一生のうちこの出来事は、いまだに私の最大の誇りとなっている。私の芸術家としての全生涯の守り本尊なのだ。」と言ったといいます。
少年の日に胸に刻まれたこの楽聖の励ましを、一生を通じ全うしたのがリストの生涯ではなかったかと思うのです。
yukiko3916
が
しました
リストのあまりにも強い個性は、ときに、その恩恵を受けられなかった者をスポイルした一面もあったかもしれませんが、音楽史への貢献は計り知れないほと大きいと存じます。
yukiko3916
が
しました