1941年3月15日、スーツケース一つを手にしたプロコフィエフは、リーナと、17歳の長男スヴェトスラフ、13歳の次男オレグとともに暮らしていたアパルトマンを出たまま、二度とこの家に戻りませんでした。彼はそのまま、ミーラとその両親の一家三人のアパルトマンに寄寓して(入り婿の如くに転がり込み)、ミーラと事実上のパートナーとして、オフィシャルな場面でも振舞うようになりました。
夫であり、父親であるプロコフィエフに去られた、リーナと思春期の二人の息子がどんな思いを味わったか、また、生活上のとてつもない困難に直面しなければならなかったのか、それは言語に絶するものでした。
プロコフィエフは三人に、多少の生活費を送ったそうですが、そんなものではどうにもならず、リーナは、よそ者として冷視されながら、密告者だらけのスターリン体制の下で、育ち盛りの二人の息子を食べさせ、教育も受けさせるために、身を粉にして働かなければなりませんでした。

しかも、ドイツとの戦争に突入し、生活はさらに困難を極めていきます。
一方、ミーラを選んだプロコフィエフは国家の特別な庇護を受けて、安全な疎開先にミーラ一家と共に逃れます。でも、リーナと息子たちは空襲の恐怖におびえ、食料調達にも辛酸をなめながら、四年もの地獄の日々をモスクワのアパルトマンで過ごしたのです。
リーナは生活費を得るために、ソヴインフォルムビュロ(ノーヴォスチ通信社の前身)で英語と仏語の翻訳の仕事をこなしながら、何とかこの状況を脱出したいと、ひそかに外交官たちと接触して旅券を得ようとします。また、パリにいる母親のもとに送金しようと、さまざまな困難と闘いました。
1945年に終戦を迎えますが、それはリーナにとって、さらなる地獄をもたらすことになりました。
1947年秋、プロコフィエフは、モスクワの地方裁判所にリーナとの離婚を申請します。すると裁判所は数日後に、こんなありえない判決を下したのです。
プロコフィエフとリーナとの結婚は、ソ連邦の国内ではなく、ヴァイマール共和国(当時)でおこなわれたものなので、そもそも無効である! と。
つまり、婚姻そのものに効力がないので、プロコフィエフは独身者であり、誰と結婚するものまったく自由である、というのです。
2023年4月24日記
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