ミーラ・メンデリソンは、1915年旧暦1月8日に、現在のウクライナ、キーウのユダヤ人家庭に生まれました。父親は経済学者で統計家、母親は共産党幹部となった人物です。
 
ミーラというのは通称で、アレクサンドロエーヴァ・メンデルスゾーンともいいました。メンデリソンとは、かの、フェリックス・メンデルスゾーンと同じく、「メンデルの息子」を意味する、ユダヤ人の姓です。
 ミーラの両親は、ソ連邦の共産党員の優秀な構成員でした。
 ミーラは、幼少期から高い教育を受け、プロコフィエフと知り合った1938年には、マクシム・ゴーリキー文学大学の研究生として、翻訳業務に携わっていました。
 プロコフィエフとミーラの出会いについて、詳しいことは明らかにされていませんが、おそらく、1938年の夏に、リゾート地のキスロヴォツク滞在中のことだったようです。  
 ソ連邦の期待を一身に背負う47歳の作曲家と、詩人として世に羽ばたきたい23歳の若い女性。  
 ミーラは、このリゾート地滞在中に、自作の詩や舞台劇の台本を携えて、プロコフィエフの登場シーンを追っていたといわれます。それは、善意に考えれば、国際的な名声を持つ気鋭の作曲家に、台本作家として認めてもらい、自作台本を新作のバレエやオペラに採用して欲しい一心だったのかも知れません。
 しかし、ミーラ・メンデリソンという人物がプロコフィエフに接近したのは、あるいは、もっと大きな、個人の願望を超越したところで、ソヴェエトの将来を担う優秀な音楽家を、家庭生活もろとも、国家の管理下に置きたいという、国をあげての強烈な管理意識、あるいは命令を背負っての行動だった、とみる見方もあります。
 当初プロコフィエフは、妻のリーナに対し、
「僕に、自作の詩を認めてもらいたがっている女の子がいるんだよ.でも、大した才能ではないけどね」  
 のような、苦しい説明をしていたということです。
 でも、結局、プロコフィエフはリーナとの離婚を裁判所に訴えます。
 すると、裁判所は、リーナにとってあまりにも無情な、驚くべき裁定を下したのです。
Mira_Mendelssohn_Prokofiev
 上の写真が、「プロコフィエフ夫妻」として流通している、ミーラとセルゲイの、おそらく唯一のもので、わたくしが探索した限り、ほかに、ミーラの写真はありませんでした。
 では、いかにして、ミーラは、リーナを押しのけて「プロコフィエフの妻」となりえたのか、血も凍る、寒い、寒いお話は明日また。
                               2023年4月23日記