当初、プロコフィエフは、自分はショスタコーヴィチの轍を踏むはずがない、とタカをくくっていたようです。でも、現実は甘くはありませんでした。彼が復帰記念作と位置付けて心血を注ぐ大作バレエ『ロメオとジュリエット』は、当初の依頼者、レニングラードのキーロフ劇場が、おそらく、その悲劇性が共産主義的ではないとして素材に難色を示して破談となります。そのあとを、モスクワのボリショイ劇場が引き継いではくれたのですが、終わらせ方を巡って議論百出し、振付師からも踊りにくいなどの不満の声が上がって、何度も改訂する羽目となり、結局、モスクワとの契約も流れてしまいます。彼はやむなく、組曲版を先に初演しました。
バレエ版の初演は、レニングラード・バレエ学校200年記念として実現しそうになり彼を期待させましたが、これもなぜかだめになり、1938年12月30日に、モスクワでもレニングラードでもない、チェコのブルノ歌劇場で、やっとのことで行われる始末!
ソ連邦での初演は、1940年1月11日に最初の依頼主、キーロフ劇場でようやく果たされました。
この間の1937年は革命20周年でしたので、彼は『10月革命20周年を記念するカンタータ』を書き上げますが、これもオーディションを通すようにといわれ、その結果、審査員から冷や水のような言葉をあびせられます。
「何をしているつもりかね、セルゲイ・セルゲーエヴィチ、人民のものであるテクストを取り上げて、そこへこのような理解不能な音楽をつけるとは?説明してくれたまえ」
初演どころではなく、一歩間違えばシベリア行きの音楽を、彼は書いてしまったのです。
このストレス多き日々の中、頭脳極めて聡明な彼は大好きなチェスに慰めを見出しますが、本質的な解決にはならず、不自由な日常生活についつい愚痴をこぼすことの多いリーナとの仲を冷めさせていきます。
そこに登場したのが、いいえ、もしかしたら、そのタイミングを図っていたかのように彼の前に現れたのが、23歳の詩人志望の女学生、ミーラ・メンデリソンでした。
2023年4月22日記
バレエ版の初演は、レニングラード・バレエ学校200年記念として実現しそうになり彼を期待させましたが、これもなぜかだめになり、1938年12月30日に、モスクワでもレニングラードでもない、チェコのブルノ歌劇場で、やっとのことで行われる始末!
ソ連邦での初演は、1940年1月11日に最初の依頼主、キーロフ劇場でようやく果たされました。
この間の1937年は革命20周年でしたので、彼は『10月革命20周年を記念するカンタータ』を書き上げますが、これもオーディションを通すようにといわれ、その結果、審査員から冷や水のような言葉をあびせられます。
「何をしているつもりかね、セルゲイ・セルゲーエヴィチ、人民のものであるテクストを取り上げて、そこへこのような理解不能な音楽をつけるとは?説明してくれたまえ」
初演どころではなく、一歩間違えばシベリア行きの音楽を、彼は書いてしまったのです。

このストレス多き日々の中、頭脳極めて聡明な彼は大好きなチェスに慰めを見出しますが、本質的な解決にはならず、不自由な日常生活についつい愚痴をこぼすことの多いリーナとの仲を冷めさせていきます。
そこに登場したのが、いいえ、もしかしたら、そのタイミングを図っていたかのように彼の前に現れたのが、23歳の詩人志望の女学生、ミーラ・メンデリソンでした。
2023年4月22日記
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