本日の小平楽友サークル講座では、「20世紀の名演奏家たち」第2回としてハイフェッツを採り上げました。一点の曇りもない完璧な技巧に、みなで、ため息を漏らしました。ことに、ディニーク『ホラ・スタッカート』、ハチャトゥリアン『剣の舞』、バッツィーニ『妖精の踊り』などは、いつ聴きましても、人間技とは思えません。『妖精の踊り』の録音は16歳の1917年。革命の大混乱から命からがら、合衆国へ逃れてすぐの時期です。そんな苦労などみじんも感じさせない、あざやかな演奏には驚かされますし、このような録音が残っていることもつくづくありがたく思われます。この写真は、もうすこしのちのものでしょうか。
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 講座では、彼の来日歴にもひとこと触れました。それを少し、補足させていただきますと、ハイフェッツが最初に日本を訪れたのは、1923年、大正12年の秋、つまり、9月1日の関東大震災直後のことでした。その来日記事が「アサヒグラフ」に掲載されました。
「世界的大提琴家ハイフェッツ氏は九月下旬帝劇で演奏会を催す筈であったところ、震災の為め中止となって氏は一時支那へ赴いたが、来朝の志望を断念せず本月七日上海から来朝して、九日より三日間帝国ホテルの演芸場で演奏会を開き、荒廃した帝都に芸術復興の第一幕をあげた。 

 ヤッシャ・ハイフェッツ氏は千八百九十九年露西亜のウイルナに生まれた、だからことしは二十四歳である。さう言ふ若い世界的のヴァイオリンの天才である。幼時からその匂ひの濃いものがあって、型の如く、露都のレオポルド、アウワア門下となって世に出た。

 露都戦乱と同時に、西伯利線で浦潮斯徳 〔ウラジオストック〕 、敦賀、横浜を経て米国に行った。アメリカの初舞台は千九百十七年、カアネギイ・ホールで演った、一躍して米大陸の人気者になった。アメリカの批評家は氏を指して『新たに熟せんとする果物だ』と言った人がある。新秋の果物の新鮮な大地の匂ひを、氏の芸術に聴くことができたのは快心なことである。」(大正12年11月14日発行 アサヒグラフ 第1巻第1号)
  
 初日の11月9日に帝国ホテル演芸場で開かれたハイフェッツのリサイタルの曲目は、以下の通りです。
  

 一、シャコンヌ          ‥‥‥ トーマソ・ヴィタリ作 レオポルド・シャーリエ編

 二、コンセルト(短に調)     ‥‥‥ ウ井ーニアウスキー作

     アレグロ・モデラート

     ローマンス・アンダンテ・ノン・トロッポ

     終曲、 ア・ラ・ツィンガラ

   -休憩-

 三、(イ)アベ・マリア      ‥‥‥ シューベルト作

   (ロ)ミヌエット       ‥‥‥ モッツアルト作

   (ハ)ノックターン(長に調) ‥‥‥ ショパン作 ウィルヘルミ編

   (ニ)苦行僧の合唱      ‥‥‥ ベートーベン作 アウァー編

   (ホ)土耳古行進曲      ‥‥‥  〃

 四、(イ)メロディー       ‥‥‥ チャイコウスキー作

   (ロ)ロンド・デ・ルタン   ‥‥‥ バッチニ作

 
 伴奏ピアニストは、イシダ―・アクロン、使用ピアノは竹内楽器店提供のスタインウェー。
 入場料は、白券10円、青券6円。  
 売り上げから少なからぬ額が、震災復興のために寄付されたということです。
 今から100年前の、22歳の青年ヴァイオリニストの心意気です。

                                 2023年3月15日記