12月28日は、ヨーゼフ・ハシッドさまのお誕生日でした。当日に彼のことを書こうと思いながら他の話題を取り上げてしまい、お誕生祝いが本日になったことをまず、ハシッドさまにお詫び申し上げます。
ヨーゼフ・ハシッドは1923年12月28日にポーランドの片田舎、ロシア国境に近いスワウキという村の貧しいユダヤ人家庭に生まれました。生まれて間もなく、母親を亡くした彼は音楽好きな父親の手一つで育てられ、幼児期から近所の先生についてヴァイオリンを弾き始め、近隣で神童の名をほしいままにします。
10歳でワルシャワのショパン音楽院に入学した彼は、ミハロヴィチという先生のクラスに振り分けられました。ここで彼は初めて、手ごわいライバルに出会うのです。彼よりも5つも年下の少女イダ・ヘンデルでした。
イダは自分のほうが技術が上だと感じたようですが、ハシッドの父親同様熱心なステージ・ハバであったイダの父親はハシッドの唯ならぬ才能に気づき、貧しいハシッドが、名教師カール・フレッシュのもとで月謝免除で勉強できるよう、働きかけてくれました。この間、ハシッドはワルシャワでいくつかの演奏会に出演して絶賛され、ウィニアフスキ―・コンクールにも出場しました。ジネット・ヌヴーが一位になり、オイストラフが二位になったあの歴史的な回です。ハシッドはディプロマに終わりましたが、それは記憶の欠落があったためと、マーガレット・キャンベル女史は述べています。
クライスラーをして「◎✖(とても著名な才能あるヴァイオリニストの名をあげたということです)のようなヴァイオリニストは100年に一人くらい出るが、ハシッドのようなのは、200年に一人だな」と言わしめたのはこの頃のことだと言います。
1937年の夏、フレッシュの夏期講習に参加したハッシドは、同じくフレッシュにヴァイオリンを学ぶ2歳年上の名家の令嬢と恋に落ちます。しかし、若い彼の急進的な情熱に、やがてその令嬢はたじろいで彼を避けるようになり、周囲も家柄の違い過ぎる二人の恋に反対して、この恋はハシッドが無念の涙を呑んで終わります。
彼が精神を病むようになったのはこの失恋事件からのこととされています。
それでも、1940年4月には、ジェラルド・ムーアのピアノ伴奏を得て、ウィグモア・ホールで本格デビュー・リサイタルを開いています。パガニーニの超難曲『こんなに胸騒ぎが、による変奏曲』を含む、ドビュッシー、シューベルト、コレッリといったプログラムを弾き、「タイムズ」紙は16歳の彼を「成熟した芸術家」と讃えました。
3週間後の、ロンドン・フィルとのチャイコフスキーの協奏曲の協演も大成功、続くいくつかのコンサートも大喝采を浴びました。演奏会のオファーが相次ぎ、HMVからもコンチェルトを含むレコーディングの話が持ち込まれます。
しかし、彼の精神状態は次第に修復不能なまでに不安定になり、何週間も楽器に触れようとしないで平気でいたかと思えば、ぶつぶつと意味不明の言葉をつぶやくこともあり、最愛の父親にナイフで襲い掛かるような真似までするようになりました。
入院加療により、一時的には回復し1942年にいったんステージ復帰しますが、再び症状が悪化して精神病院に強制入院となります。
そんなハシッドに、恩師フレッシュは
「君のような偉大な芸術家は、世界に対して、再び活動できるようになる義務があるのです。」
と励ましの手紙を送っています。
1950年10月20日、脳のロボトミー手術を受けたハシッドは、18日後に26歳で亡くなりました。
活動期間わずか2年足らずの薄幸すぎる天才の遺産は、小品9録音、うち1曲は重なるので曲数にすると8曲のみです。
しかしながら、これをお聴きになれば、クライスラーの言葉が真実を言い当てていたことがよくおわかりになるでしょう。
(475) Kreisler: Caprice Viennois (Josef Hassid, violin, Gerald Moore, piano) - YouTube
1923年12月28日生れ、1950年11月7日に26歳で夭折したハシッドは、お元気ならば一昨日、99歳になられるはずでした。
かつてのライバル、イダ・ヘンデルは90年近いキャリアをまっとうなさり、2020年6月30日に世を去られました。わたくしは、ヘンデルの1995年か96年の来日時のコンサートをお聴きしてそのあと少しお話させていただき、その時、気合を入れてつけていったヴァイオリン型のブローチをはずし、プレゼントさせていただいたことを思い出しました。その来日公演のプログラムに、イダさまのキャリアに関するエッセイを書かせていただいたことが、忘れられない思い出でございます。
以後、何回か、来日公演を聴かせていただきましたが、ご自身の芸域のゆるぎない確立には最後まで驚きの連続でした。
もちろんもちろん、ハシッドさまを聴いたことはございませんのに。
ハシッドさまの無作為の天才芸とは、1997,年に当時の東芝EMIが出してくださった、創立100周年記念企画Box「名ヴァイオリニストの歴史」収録の、エルガー「気まぐれ女」で初めてお聴きし、雷に打たれたような衝撃を受けたのが最初の出会いで、以後、おりにふれて聴かせていただいております。ヌヴ―とのカップリンク盤は今も容易に入手できます。
同じポーランドのユダヤ人家庭出身の天才少年少女の、あまりに対照的な人生に言葉もございません。せめて、ハシッドの戦慄の録音を上記クリックで聴いて差し上げてくださいませ。
2022年12月30日記
ヨーゼフ・ハシッドは1923年12月28日にポーランドの片田舎、ロシア国境に近いスワウキという村の貧しいユダヤ人家庭に生まれました。生まれて間もなく、母親を亡くした彼は音楽好きな父親の手一つで育てられ、幼児期から近所の先生についてヴァイオリンを弾き始め、近隣で神童の名をほしいままにします。
10歳でワルシャワのショパン音楽院に入学した彼は、ミハロヴィチという先生のクラスに振り分けられました。ここで彼は初めて、手ごわいライバルに出会うのです。彼よりも5つも年下の少女イダ・ヘンデルでした。
イダは自分のほうが技術が上だと感じたようですが、ハシッドの父親同様熱心なステージ・ハバであったイダの父親はハシッドの唯ならぬ才能に気づき、貧しいハシッドが、名教師カール・フレッシュのもとで月謝免除で勉強できるよう、働きかけてくれました。この間、ハシッドはワルシャワでいくつかの演奏会に出演して絶賛され、ウィニアフスキ―・コンクールにも出場しました。ジネット・ヌヴーが一位になり、オイストラフが二位になったあの歴史的な回です。ハシッドはディプロマに終わりましたが、それは記憶の欠落があったためと、マーガレット・キャンベル女史は述べています。
クライスラーをして「◎✖(とても著名な才能あるヴァイオリニストの名をあげたということです)のようなヴァイオリニストは100年に一人くらい出るが、ハシッドのようなのは、200年に一人だな」と言わしめたのはこの頃のことだと言います。
1937年の夏、フレッシュの夏期講習に参加したハッシドは、同じくフレッシュにヴァイオリンを学ぶ2歳年上の名家の令嬢と恋に落ちます。しかし、若い彼の急進的な情熱に、やがてその令嬢はたじろいで彼を避けるようになり、周囲も家柄の違い過ぎる二人の恋に反対して、この恋はハシッドが無念の涙を呑んで終わります。
彼が精神を病むようになったのはこの失恋事件からのこととされています。
それでも、1940年4月には、ジェラルド・ムーアのピアノ伴奏を得て、ウィグモア・ホールで本格デビュー・リサイタルを開いています。パガニーニの超難曲『こんなに胸騒ぎが、による変奏曲』を含む、ドビュッシー、シューベルト、コレッリといったプログラムを弾き、「タイムズ」紙は16歳の彼を「成熟した芸術家」と讃えました。
3週間後の、ロンドン・フィルとのチャイコフスキーの協奏曲の協演も大成功、続くいくつかのコンサートも大喝采を浴びました。演奏会のオファーが相次ぎ、HMVからもコンチェルトを含むレコーディングの話が持ち込まれます。
しかし、彼の精神状態は次第に修復不能なまでに不安定になり、何週間も楽器に触れようとしないで平気でいたかと思えば、ぶつぶつと意味不明の言葉をつぶやくこともあり、最愛の父親にナイフで襲い掛かるような真似までするようになりました。
入院加療により、一時的には回復し1942年にいったんステージ復帰しますが、再び症状が悪化して精神病院に強制入院となります。
そんなハシッドに、恩師フレッシュは
「君のような偉大な芸術家は、世界に対して、再び活動できるようになる義務があるのです。」
と励ましの手紙を送っています。
1950年10月20日、脳のロボトミー手術を受けたハシッドは、18日後に26歳で亡くなりました。
活動期間わずか2年足らずの薄幸すぎる天才の遺産は、小品9録音、うち1曲は重なるので曲数にすると8曲のみです。
しかしながら、これをお聴きになれば、クライスラーの言葉が真実を言い当てていたことがよくおわかりになるでしょう。
(475) Kreisler: Caprice Viennois (Josef Hassid, violin, Gerald Moore, piano) - YouTube
1923年12月28日生れ、1950年11月7日に26歳で夭折したハシッドは、お元気ならば一昨日、99歳になられるはずでした。
かつてのライバル、イダ・ヘンデルは90年近いキャリアをまっとうなさり、2020年6月30日に世を去られました。わたくしは、ヘンデルの1995年か96年の来日時のコンサートをお聴きしてそのあと少しお話させていただき、その時、気合を入れてつけていったヴァイオリン型のブローチをはずし、プレゼントさせていただいたことを思い出しました。その来日公演のプログラムに、イダさまのキャリアに関するエッセイを書かせていただいたことが、忘れられない思い出でございます。
以後、何回か、来日公演を聴かせていただきましたが、ご自身の芸域のゆるぎない確立には最後まで驚きの連続でした。
もちろんもちろん、ハシッドさまを聴いたことはございませんのに。
ハシッドさまの無作為の天才芸とは、1997,年に当時の東芝EMIが出してくださった、創立100周年記念企画Box「名ヴァイオリニストの歴史」収録の、エルガー「気まぐれ女」で初めてお聴きし、雷に打たれたような衝撃を受けたのが最初の出会いで、以後、おりにふれて聴かせていただいております。ヌヴ―とのカップリンク盤は今も容易に入手できます。
同じポーランドのユダヤ人家庭出身の天才少年少女の、あまりに対照的な人生に言葉もございません。せめて、ハシッドの戦慄の録音を上記クリックで聴いて差し上げてくださいませ。
2022年12月30日記

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