アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)の交響曲第9番『新世界より』は1893年の本日、12月15日にベルリンのジムロック社より出版され、翌日12月16日にニューヨークのカーネギー・ホールで、アントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルハーモニックによって初演されて大好評を博しました。と知ったとき、ああ、初演日の前日が出版日となったのだな、初演日に間に合ってよかった。よかった、楽譜の会場販売コーナーは飛ぶように売れたのではないかしら、と思いそうになりましたが、「12月15日」というのが印刷譜の奥付の出版日で、もう少し早く刷り上がっていたとしても、ベルリンとニューヨークですから、当時のこと、会場販売には間に合わなかったのではないか、と気づきました。
でも、ジムロック社の三代目、フリッツ・ジムロック(1837-1901)は商魂たくましい社長でしたから、ことによるとうまく会場売りして、お儲けになられたのかも存じません。こちらが、祖父の起こしたジムロック社を発展させた三代目でいらっしゃいます。
このフリッツ・ジムロックはもともとブラームス(1833-1897)の作品出版を手掛けていた人で、ブラームスから頼まれて無名だったドヴォルサークの作品出版もしぶしぶ引き受けてくれたのですが、ドヴォルザークのお名前があがってからも、フラームスにはそこそこ払っても、ドヴォルザークには買いたたき、払い惜しみをして、ずいぶんと彼を苦しめた人物です。交響曲第7番の時も、約束の前払い半金を払ってくれなかったため、ドヴォルザークはその年のじゃが芋の不作とのダブルパンチを受けて、6人もの子どもたちに食べさせるのに一苦労をなさいました。
いつの世も時代も、出版社と作者との間には、いろいろと目に見えない事情があるようで、たいていは、作者が煮え湯を飲まされるのでございます。
ところで、たとえジムロックが献身的な出版人だったとしても、『新世界』交響曲の出版には大きな困難がありました。
それは、当時作曲家がニューヨークにいたために、ベルリンのジムロック社から出されるゲラのチェックができなかったことでした。今の時代でしたら、瞬時やり取りできますのに、当時は現物チェックでしたから当人が遠隔地にいますと、すぐには校正できなかったのです。
そこで、本人に代わって校正に協力したのが、ブラームスをはじめドイツ・オーストリア圏にいた作曲家たちだったそうです。ジムロックさんのことですから、第三者校正料などろくに払わなかったものと思われるのに、大家中の大家となっていたブラームスが協力したのには頭が下がります。
しかしながら、友情話としては美談でも、本人の校正が入らないまま出版されたことには問題が残りました。また、ニューヨークからドヴォルザークがベルリンへ送った(もちろん船便で)スコアの写しも行方不明になってしまい、このことも『新世界』交響曲の解釈をめぐるさまざまな議論を呼んでいます。
今からわずか129年前にはこれほど遠隔地間のやりとりが不便だったとは、生まれた時からインターネットの普及していた世代の方々には想像も困難でしょうけれども、そんな時代がついこの前まであったのでした。
本日の『新世界』交響曲出版記念日から、いろいろと思いを馳せました。
2022年12月15日記
でも、ジムロック社の三代目、フリッツ・ジムロック(1837-1901)は商魂たくましい社長でしたから、ことによるとうまく会場売りして、お儲けになられたのかも存じません。こちらが、祖父の起こしたジムロック社を発展させた三代目でいらっしゃいます。
このフリッツ・ジムロックはもともとブラームス(1833-1897)の作品出版を手掛けていた人で、ブラームスから頼まれて無名だったドヴォルサークの作品出版もしぶしぶ引き受けてくれたのですが、ドヴォルザークのお名前があがってからも、フラームスにはそこそこ払っても、ドヴォルザークには買いたたき、払い惜しみをして、ずいぶんと彼を苦しめた人物です。交響曲第7番の時も、約束の前払い半金を払ってくれなかったため、ドヴォルザークはその年のじゃが芋の不作とのダブルパンチを受けて、6人もの子どもたちに食べさせるのに一苦労をなさいました。
いつの世も時代も、出版社と作者との間には、いろいろと目に見えない事情があるようで、たいていは、作者が煮え湯を飲まされるのでございます。
ところで、たとえジムロックが献身的な出版人だったとしても、『新世界』交響曲の出版には大きな困難がありました。
それは、当時作曲家がニューヨークにいたために、ベルリンのジムロック社から出されるゲラのチェックができなかったことでした。今の時代でしたら、瞬時やり取りできますのに、当時は現物チェックでしたから当人が遠隔地にいますと、すぐには校正できなかったのです。
そこで、本人に代わって校正に協力したのが、ブラームスをはじめドイツ・オーストリア圏にいた作曲家たちだったそうです。ジムロックさんのことですから、第三者校正料などろくに払わなかったものと思われるのに、大家中の大家となっていたブラームスが協力したのには頭が下がります。
しかしながら、友情話としては美談でも、本人の校正が入らないまま出版されたことには問題が残りました。また、ニューヨークからドヴォルザークがベルリンへ送った(もちろん船便で)スコアの写しも行方不明になってしまい、このことも『新世界』交響曲の解釈をめぐるさまざまな議論を呼んでいます。
今からわずか129年前にはこれほど遠隔地間のやりとりが不便だったとは、生まれた時からインターネットの普及していた世代の方々には想像も困難でしょうけれども、そんな時代がついこの前まであったのでした。
本日の『新世界』交響曲出版記念日から、いろいろと思いを馳せました。
2022年12月15日記

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