本日10月17日はショパンのご命日でございます。フレデリック・フランソワ・ショパンは1810年のおそらく3月1日にワルシャワ近郊ジェラゾヴァヴォーラに生まれ、1849年10月17日にパリで亡くなりました。39年と7カ月の生涯は、1歳年長のメンデルスゾーンの38歳と9カ月よりは少しだけ長いとはいえ、やはりあまりにも早い神のお迎えでした。
 この日は、夕刻から、ワルシャワの聖十字架教会で追悼ミサとコンサートが開かれます。ショパン・コンクールの開催年は、この日を挟んでコンクールが開かれていて、この日は審査はおやすみになり、みなさん、聖十字架教会に足を運びます。わたくしも過去に4回、それを体験させていただいてまいりましたので、10月17日は何かそわそわいたします。
 教会の会堂の中央には太い立派な柱が立っていて、柱の中央に作りつけられた小部屋の中に、ショパンの心臓が収められているのだそうでございます。柱と小部屋の扉まではこの目で見ることができ、写真撮影も可能ですが、その内部に安置されているという、ショパンの心臓そのものまでは、当然ながら拝見できません。想像するのみでございます。
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 ショパンは結核が進行してパリで亡くなる数カ月前に、ワルシャワからお姉さんのルドヴィカに来ていただき、最後の看病をお願いしました。当時、ワルシャワからパリに来ることは想像を絶する困難があり、逆もまた然りですが、ルドヴィカの弟への愛はとても強くて、この辛く悲しいお役目をやり遂げ、葬儀万端から、形見分け、遺品整理、売り立てまでなさり、女の一人旅で運べる限りのご遺品を持って、ワルシャワへ帰還されました。
 困難な旅の途中、ロシアの官憲の査察を恐れて、一部の遺稿等は途中の知人に預けたままとなりますが、ホルマリンか何かにひたして壺に収めたらしい弟の心臓だけは、あらゆる困難に耐えて持ち帰られたそうです。保存技術も今よりは劣り、密封容器もない、馬車と徒歩の旅にいったいどうやって・・・と涙がこぼれます。
 その後の長い侵略の歴史の中で、別の場所に移され、行方知れずになりかけたこともあったものが、第二次大戦後にようやく、聖十字架教会の柱の中に安住の地を見出したのでした。
 わたくしはこの柱を見上げましたたびに、ショパンのお姉さまがどんなにかたいへんな思いで持ち帰られたかを想像して、姉弟愛に打たれたのでした。
 ショパンのお墓は、パリのペール・ラシェーズ墓地にございますが、心臓だけでも愛するポーランドに帰ることができて、ショパンは嬉しかったことでしょう。これもみんな、お姉さまのお骨折りの賜物でした。
                                   2022年10月17日記