「もう一回やりなおすというわけにはいかないのは承知していながら、コンサートになるといつだって、それをやりたくなったものです。弾くのをやめて、くるりと聴衆のほうへ向き直り、こういってみたくなるのです。「もう一回、やりなおしてみますから」そういってしまおうという幻想を何度も味わったことはありますが、それを実現してみるだけの勇気は、とうとう湧いてきませんでした」
31歳と6カ月でコンサート活動にほぼ終止符を打ち、50歳で脳卒中に斃れるまでの後半生はレコーディング・スタジオという環境に「気分よく仕事のできる場」を見出したグレン・グールドは、1932年の本日、9月25日にカナダのトロントに生まれました。
生家はもともと「ゴールド」という姓でしたが、ユダヤ人にこの姓が多いため、反ユダヤ主義者の攻撃目標となることを恐れ、グレンの誕生後まもなく、一家は「グールド」と改姓しました。父親バートは毛皮商ながら、達者なアマチュア・ヴァイオリニスト、母親フローレンスは声楽教師でピアノも堪能でした。フローレンスの祖父は、ノルウェーの作曲家エドゥアルド・グリーグの従兄でしたから、グレンから見れば、ひいおじいさんの従兄がグリーグという関係になります。
幼年時代のグレンは母の弾くピアノの楽曲をたちどころに再現することができ、5歳の頃には曲を書き始め、将来は作曲家になろうと心に決めていたといいます。大好きなピアニストはヨゼフ・ホフマン。10歳になるまでにはバッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1巻を全曲暗譜で弾くことができました。
ある日、友人一家に釣りに連れて行ってもらい、グレンの竿に最初の魚がかかったとき、彼は自分がその魚になったような気がして、この魚を水に戻してやると言い張って友人一家を呆れさせました。
それくらい小さな命をいとおしんだ彼は、自宅に多くの生き物を飼い、セキセイインコにはモーツァルト、金魚にはバッハ、ベートーヴェン、ショパン、犬にはシンドバッド、Sir・ニコルソンなどの名前をつけて愛しました。
彼が愛犬とピアノを連弾する写真は、いつまで眺めていても見飽きることがございません。この賢いダルメシアンが、sir・ニコルソンでしょうか。うらやましすぎます。
7歳でトロント音楽院に入学、チリ出身のアルベルト・ゲレーロ(1886~1959)という、理解ある先生に20歳になるまで師事しました。この間の1944年にトロントのピアノ・コンペティションに優勝したのが彼のほとんど唯一のコンクール歴です。普通の少年らしく成長させたいと願う両親は、息子を神童としてマスコミにさらすような愚かな真似は一切しなかったので、本当にすくすくと、伸びやかに成長できたようです。
一方、裕福な両親はひとりっ子の彼のために年間3000ドルという莫大な教育費を惜しまず、家にはコンサート・グランド・ピアノを2台置き、さらに学校でも彼がいつでも弾けるようにと1台寄付していました。
トロントのコンペティションに優勝した翌年、彼の演奏がラジオ放送されると、世間が彼を放っておかず、14歳のときトロント交響楽団と協演してデビューを果たすことになります。
1955年1月、22歳のグレンがワシントンとニューヨークで開いたリサイタルはワシントン・ポスト紙上で
「いかなる時代にも彼のようなピアニストを知らない」
という有名な評をもって絶賛されました。曲目はバッハのパルティータ第5番とベートーヴェンのソナタ第30番 作品109。
コロムビア・レコードのプロデューサーは他社に抜け駆けて彼と生涯専属契約を結びます。
「さあ、デビュー盤を録音しよう。曲は何がいいだろうか」
「もちろん、バッハです。バッハの『ゴルトベルク変奏曲』です」
「えっ!!『ゴルドベルク』だって!そりゃ、無茶だ。地味すぎる。長すぎる。退屈すぎる。デビュー盤はもっと華やかで、聴かせどころの多い作品でなくては」
「僕は『ゴルドベルク』以外、考えていません」
「だいたい、あれはもともと、ピアノのための曲じゃないじゃないか。ピアニスト・デビューには向かないよ」
「僕はあれがいいんです」
「いや、あれにはワンダ・ランドフスカ女史のモダン・チェンバロ録音がある。バッハ好きな人たちはみんな、『ゴルドベルク』ならランドフスカ女史だと決め込んでいるから、今更ピアノで録音したって誰も見向きもしないよ。悪いことは言わない。あれだけはやめときなさい」
「それでもかまいません。僕はあれに決めているんです」
会社側の「これは到底売れまい」というあきらめムードのなか、レコーディングの日がきました。そしてその日、CBSスタジオに現われたグレンの姿をみて、プロデューサーもディレクターもエンジニアも仰天します。
6月だというのに、彼はコートにマフラー、手袋にベレー帽まで身に着け、何本ものタオル、ミネラルウォーターの大瓶2本、それに多種の丸薬類の入ったカバンと、父親が彼のためにつくったという高さ35・6センチの四肢を個別に調整できる折り畳み椅子をぶらさげていたのです。
タオルは演奏前に20分間もお湯に浸した両手を執拗に拭くためのもの、ミネラルウォーターは絶対に水道水を口にしない彼の必需品、丸薬類も病気を異様に恐れる彼の守り神、そして一風変わった椅子こそは、彼とピアノを一体化する魔法のアイテムでした。この椅子に坐って顔を極度に鍵盤に近づけ、手首も鍵盤より低い姿勢から紡ぎ出される彼のバッハは、一音一音のくっきりと浮き立つノン・レガート奏法による旋律線のきわめて明晰なもので、これまで誰も聴いたことのない新鮮な響きに満たされていました。
こうして録音された『ゴルドベルク変奏曲』のレコードは翌年にリリースされるや、ヒット・チャート1位のベスト・セラーとなりました。このレコードによって、グレン・グールドは世の人々に、「ピアノで弾くバッハ」という新たな地平線を照らして見せたのです。
1957年には北米のピアニストとして第2次大戦後最初にソ連を訪れ、「バッハの再来」と評されます。ヨーロッパではカラヤン、ストコフスキーといった巨匠指揮者と協演し、1959年にはザルツブルク音楽祭にも登場しました。
けれどもこのあと、彼のコンサート・キャリアは終わりに近づいていきます。病気を理由にキャンセルすることが多くなったのです。でも、レコーディングと放送出演の契約だけは忠実に守られました。そして、1964年3月28日のシカゴ・リサイタルが最後のコンサートとなりました。
1981年、グレンはのちに永遠の名盤の評価を得ることになる『ゴルドベルク変奏曲』の再録音を実現させました。しかし、その翌1982年の9月の末に脳卒中の発作を起こし、そのまま快復することなく10月4日に星となりました。
存命していらしたなら、グレン・グールドさまは本日、卒寿を迎えられます。
この日に、新旧両盤の『ゴルドベルク』を聴き返してみたいと存じます。
みなさまはどちらがお好みでいらっしゃいますか?
バッハ Bach: ゴルトベルク変奏曲 Goldberg Variations BWV988/グレン・グールド Glenn Gould 1955/レコード/高音質 - YouTube
バッハ - ゴルトベルク変奏曲 BWV.988 グールド 1981 - YouTube
2022年9月25日記
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