日本人歌手として初めてプッチーニのオペラ『蝶々夫人』主役を歌って大成功を収め、作曲家本人からも「理想の蝶々さん」と絶賛されたソプラノ、三浦環さん(1884~1946)は、終戦の翌年、昭和21年の本日、入院中の帝大病院で腹部のがんのため、62歳の生涯を閉じられました。おなかのしこりは数年来かかえていらしたようですが、戦時中の食糧にも医療品にも事欠く不自由な生活の中、検査や手術などの機会もないまま、よくないご病気が悪化されていったようです。
 それでも終戦を迎えると、栄養失調の今ではやせ衰えた体で演奏活動を再開、昭和20年の12月1日と7日には『冬の旅』の全曲演奏会を開催されました。個人のリサイタルとしてはこれが戦後初の公演でした。
 年が明けた21年の3月21日、昼夜2回にわたり、今度は『美しき水車小屋の娘』をとりあげてリサイタルを開きます。この時にはご病気が相当に進んで、ひんぱんにお花を摘みにいかなければならないために、途中、何度も中断を余儀なくされながらもついに全曲歌い切り、アンコールに『ホームスイートホーム』まで歌って涙と拍手に包まれたのが、最後の演奏会となりました。
 このあと24日から、多摩川上野毛の大東学園病院に入院なさいますが、4月9日には迎えの車でNHKスタジオまで連れて行ってもらい、『ある晴れた日に』他を収録しています。
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「今日はわたしが思っていたのの100分の1も歌えなかった。こんなへたな『蝶々夫人』が三浦環の最後の録音になるかと思うと、悲しくて悲しくて・・・・・・」

 世界各地で『蝶々夫人』2,000回の上演記録を打ち立てたこの不世出のソプラノは、収録後、こうおっしゃってさめざめと泣かれたそうです。
 その後、帝大病院に転院、5月23日から昏睡して危篤状態に陥りますが、24日にはその状態のまま、ドビュッシーの歌曲『パルコン』をフランス語で歌って人々を驚かせ、5月26日午前5時20分に静かに旅立たれました。
 環さんの詳しいご生涯や、プッチーニとの会見については、2018年に中央公論新社より出版させていただいたこちらの拙著に紹介させていただいております。
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 表紙の女性は、環さんではなく、プッチーニの『蝶々夫人』創作時に日本音楽の資料提供を求められて、惜しみない協力をした当時の在イタリア公使夫人の大山久子さんでございます。久子さんは何度もプッチーニと会見して日本音楽を教え、採り入れ方の助言をし、日本のしきたりや女性の道徳観などについてもレクチャーされました。拙著はこの大山久子さんのあまり知られていない生涯を、オペラ『蝶々夫人』の初演とほぼ同時に勃発した日露戦争とのかかわりの中で描いたものですが、実は、環さんも久子さんと意外なつながりがあったことも書かせていただいております。 
 環さんの良き時代の『ある晴れた日に』は、どうぞ下記クリックにてお聴きくださいませ。
プッチーニ 《蝶々夫人》「ある晴れた日に」三浦環 - YouTube
                                   2022年5月26日記