昨日4月21日、浜離宮ランチタイムコンサートvol.213 小川典子ピアノリサイタルを聴いてまいりました。春爛漫を感じさせる明るいオレンジのドレスでステージに登場された典子さんは「最初に少しお話を・・・」とおっしゃり、コロナ禍が始まって以来の活動のご様子をお話しくださいました。ロンドンにもおうちのある典子さんは、1年に12回から15回ほどの日英往復生活を、もうここ30年続けておられるそうです。コロナ禍が始まってからは、移動が大変難しくなられましたが、それでも行ったり来たりなさる必要があるため、これまでにつらい自主隔離生活を、何と、11回も経験なさったそうです。
そんな落ち着かないご生活の中、昨春、ロンドンの街の真ん中で転倒され、大事な右腕の肘から先の2本の骨を折られてしまわれたと伺い、思わず、えっ、とびっくり。
「ふつうだったら、ピアニストの命の腕の骨折! さあ、どうしよう、たいへんだ、と真っ青になるはずですが、ああ、これでしばらく隔離生活をしなくて済む、という安堵感のようなものが、ちらりと頭の片隅をよぎりました」
と、典子さん。それほど、隔離生活というのは苛酷なものなのだと、思い知った次第でございます。
幸い、4か月の休養期間をとられて見事に全快され、そのあとはまったく演奏に影響なく、何事もなかったかのようにピアノを弾いておられるそうです。
そんなお話のあと、演奏曲目をこんなふうに解説してくださいました。
「1曲目のモーツァルト『ロンド イ短調」K.511は半音階でできた主題にご注目ください」
ここで冒頭の半音階主題をお弾きになります。
「次にベートーヴェンの『悲愴ソナタ』を弾きますが、その第3楽章も同じく「ロンド」なのに、こんなに違います。こちらには半音階は一切使われていなくて、ほら、こんな感じです」
さらりと一節だけ、弾いていてくださると、性格の対象性が浮き彫りになりました。
「まるで、青春ドラマのテーマ音楽のようでしょう」
ああ、たしかに!!
実際の2曲の演奏は、二人の作曲家のテンペラメントの違いをはっきりと感じさせるもので、モーツァルトでは、シチリアーナ・リズムの底に潜む、作曲家の深い哀切の想いに心がゆさぶられ、ベートーヴェンでは、『パセティック』と名づけられてはいても、悲愴な想いに打ちひしがれてしまうのではなく、それに立ち向かいついには克服してしまうベートーヴェンを再認識させていただきました。
後半はがらりと趣きが異なり、ドビュッシーの『前奏曲集』第1巻全曲と、実はドビュッシーとは偏屈者同士として一時は友情を結んでいたサティの『ジュ・トゥ・ブ』。
1曲1曲、模糊としているようでいて、イメージがあざやかに浮かぶドビュッシー。
モンマルトルのカフェにいる気分誘われたサティ。
これも絶妙なな取り合わせでした。
そうそう、典子さんの『悲愴』では、呈示部リピートは冒頭グラーヴェからでした。確か、ルドルフ・ゼルキン、クリスティアン・ツィメルマン、フレディ・ケンプの諸氏もグラーヴェ・リピートではではなかったでしょうか。
終演後に久々にお会いし、よく骨折のお話をされましたね、と申し上げると、
「まったく元通りに回復したから、言えるようになりました。そうでなかったら言えなかったでしょう。23日でちょうど1年たちます」
「典子さんはピアニストとして鍛えていらっしゃるから、お直りがはやかったのでしょう」
「お医者さんは、ふつうのオバサンの骨だっておっしゃいましたよ(笑)」
とのことで、わたくしがこのブログに書かせていただくことも、お許しをいただいてまいりました。
大変な災難を見事に乗り越えられて、トークの話題になされる、その度量のお広さと前向きで明るい御気質、申すまでも卓越したピアニズムに感服してまいった次第でございます。
2022年4月22日記
そんな落ち着かないご生活の中、昨春、ロンドンの街の真ん中で転倒され、大事な右腕の肘から先の2本の骨を折られてしまわれたと伺い、思わず、えっ、とびっくり。
「ふつうだったら、ピアニストの命の腕の骨折! さあ、どうしよう、たいへんだ、と真っ青になるはずですが、ああ、これでしばらく隔離生活をしなくて済む、という安堵感のようなものが、ちらりと頭の片隅をよぎりました」
と、典子さん。それほど、隔離生活というのは苛酷なものなのだと、思い知った次第でございます。
幸い、4か月の休養期間をとられて見事に全快され、そのあとはまったく演奏に影響なく、何事もなかったかのようにピアノを弾いておられるそうです。
そんなお話のあと、演奏曲目をこんなふうに解説してくださいました。
「1曲目のモーツァルト『ロンド イ短調」K.511は半音階でできた主題にご注目ください」
ここで冒頭の半音階主題をお弾きになります。
「次にベートーヴェンの『悲愴ソナタ』を弾きますが、その第3楽章も同じく「ロンド」なのに、こんなに違います。こちらには半音階は一切使われていなくて、ほら、こんな感じです」
さらりと一節だけ、弾いていてくださると、性格の対象性が浮き彫りになりました。
「まるで、青春ドラマのテーマ音楽のようでしょう」
ああ、たしかに!!
実際の2曲の演奏は、二人の作曲家のテンペラメントの違いをはっきりと感じさせるもので、モーツァルトでは、シチリアーナ・リズムの底に潜む、作曲家の深い哀切の想いに心がゆさぶられ、ベートーヴェンでは、『パセティック』と名づけられてはいても、悲愴な想いに打ちひしがれてしまうのではなく、それに立ち向かいついには克服してしまうベートーヴェンを再認識させていただきました。
後半はがらりと趣きが異なり、ドビュッシーの『前奏曲集』第1巻全曲と、実はドビュッシーとは偏屈者同士として一時は友情を結んでいたサティの『ジュ・トゥ・ブ』。
1曲1曲、模糊としているようでいて、イメージがあざやかに浮かぶドビュッシー。
モンマルトルのカフェにいる気分誘われたサティ。
これも絶妙なな取り合わせでした。
そうそう、典子さんの『悲愴』では、呈示部リピートは冒頭グラーヴェからでした。確か、ルドルフ・ゼルキン、クリスティアン・ツィメルマン、フレディ・ケンプの諸氏もグラーヴェ・リピートではではなかったでしょうか。
終演後に久々にお会いし、よく骨折のお話をされましたね、と申し上げると、
「まったく元通りに回復したから、言えるようになりました。そうでなかったら言えなかったでしょう。23日でちょうど1年たちます」
「典子さんはピアニストとして鍛えていらっしゃるから、お直りがはやかったのでしょう」
「お医者さんは、ふつうのオバサンの骨だっておっしゃいましたよ(笑)」
とのことで、わたくしがこのブログに書かせていただくことも、お許しをいただいてまいりました。
大変な災難を見事に乗り越えられて、トークの話題になされる、その度量のお広さと前向きで明るい御気質、申すまでも卓越したピアニズムに感服してまいった次第でございます。
2022年4月22日記
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