20世紀最高のチェリストの一人、エマヌエル・フォイアマンはウクライナ西部ノヴァ・フランコフスク州、プルト川沿いの町、コロミア(Kolomyia, ウクライナ語 Коломия) に、ユダヤ系音楽一家の子どもとして生まれました。10歳でワインガルトナー指揮のウィーン交響楽団と協演してデビューを飾り、その後ライプツィヒでクレンゲルに師事。1929年からベルリン高等音楽院教授を務めました。この時期に同音楽院で彼に師事したのが、日本のチェロ界、指揮界の大恩人、齋藤秀雄先生でございます。
フォイアマンはベルリン・フィルのソリストとしてもたびたびステージに立って高い評価を確立しておいででしたが、33年にヒトラーが政権を取るとベルリンのポストを追われ、コンサート出演もかなわなくなります。
各地を転々としたのち、37年秋から合衆国に移った彼は、RCAに録音を開始して、ハイフェッツと組んだオーマンディ、フィラデルフィア管とのブラームスの二重協奏曲などの名盤を残します。室内楽では、ハイフェッツ、ルービンシュタインとの『大公』&シューベルトの1番が今も人気でございます。
1934年、昭和9年に初来日なさったのですが、当時の日本人は、チェロと言えばカザルス、カザルス大先生お一人がチェロの巨匠だと信じていたので、リサイタル初日の入りはよくなかったそうです。実際、カザルスは来日する、来日すると言われて、予告されながら、結局おいでになられなかったわけで、代りと言ってはなんでございますが、当時相次いでいらしてくださったのが、モーリス・マレシャル、グレゴール・ピアティゴルスキーと、このフォイアマンだったのです。
とまれ、「何だ、カザルスじゃないじゃないか」という冷たい反応の中、初日を聴いた方たちの口伝え、あるいは新聞記事によってフォイアマンの評判はぐんぐんと高まり、回を重ねるごとにお客様は増えていったといいます。
ことに、10月14日に、当時としてはめずらしいオーケストラ伴奏(近衛秀麿指揮の新交響楽団)によってドヴォルザークの協奏曲を弾くと、聴衆は眼を瞠り、やんやに沸き返って彼を讃えました。
36年、昭和11年の再来日のときは、東京と地方でリサイタルを開いたほか、中央交響楽団と、ハイドン、ボッケリーニ、サン=サーンスの協奏曲を独奏し、コロムビアにブロッホ、ヴァレンティーニなどを録音なさいました。
それらを拝聴しますと、理性に裏打ちされたスケールの大きさとテクニックの完璧さに強い印象を受けます。
二度目の来日から6年後、合衆国の市民権を手にしてわずか2週間後の1942年5月25日、ちょっとした疾患(マーラーの持病としても有名)の手術を受けた時に、悲運にも腹膜炎を併発して40歳の若さで亡くなられたことは、チェロ界にとって世界の音楽界にとって、惜しんで余りある大損失でございました。
お星さまになられたフォイアマンさま、どうぞ、天空から、あなたさまの故郷ウクライナをお守りくださいませ。
2022年4月8日記
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