昨日の東京・春・祭マラソン・コンサート「音楽・医学・文学~ヨーロッパをつくった3つの響き」の第一部はモーツァルトの時代でしたが、第二部はブラームスの時代でした。ちょうど昨日4月3日はヨハネスのご命日でしたから、それにふさわしいテーマのコンサートを聴くことがで来て、大変幸いでございました。
ヨハネスの作品は、弦楽四重奏曲第1番の第1楽章、及び、『6つの歌曲』op.6より『余波』がとりあげられ、他に、職業作曲家ではない文化人らの作品が演奏されたのですが、その中に、ビルロート作曲の歌曲『死への憧れ』がございました。石野真帆さんのピアノで感銘深く歌ってくださったのは、バリトンの吉川健一さんでした。
重く、厳粛なタイトル、ブラームスによく似た曲調を持つこの曲の作曲者、ビルロートとは、ブラームスの伝記後半にしばしば登場する親友の外科医、テオドール・ビルロート博士のことです。たいへんな音楽好きで作曲もされていたとは存じ上げていましたが、作品を聴くのは初めてで、大変興味深く拝聴いたしました。
ビルロート博士はヨハネスより4歳年上、胃がんの画期的な手術法を開発されるなど、近代医学に大きな功績のある外科医で、ヨハネスとは深い敬愛を捧げ合ってイタリア旅行もともにしたほどの仲よしでした。ヨハネスは博士を「ビルロートは、人望を得る大きな素質も小さな素質もすべて具えていました」と評しています。お二人は、風貌もちょっと似ていらっしゃいます。右がビルロート博士。
そんなビルロート博士の1894年2月6日の死は、ヨハネスを深く打ちのめしています。しかもその6日後に、彼の音楽のよき理解者である指揮者ハンス・フォン・ビューローがカイロで客死してヨハネスに計り知れない衝撃を与えました。そして2年後、96年5月20日のクララの死がそれに追い打ちをかけるのです。他にも、彼の晩年は、親しい人たちとの別れの連続でした。そのたびに肩を落とし、老けゆくヨハネス。家族のいない彼にとって、これらの人々を次々と喪う痛手は、計り知れないものでございました。
精神の落ち込みだけではなく、実は 肝臓がんが密かに進行していたのです。
1897年4月3日の朝8時30分、ウィーンの自宅で、ヨハネス・ブラームスは、幸いにもあまり苦しむことなく、クララや友人たちのもとへと旅立ちました。
あと一か月永らえて、5月7日が来れば64歳になれるところでした。
2022年4月4日記
ヨハネスの作品は、弦楽四重奏曲第1番の第1楽章、及び、『6つの歌曲』op.6より『余波』がとりあげられ、他に、職業作曲家ではない文化人らの作品が演奏されたのですが、その中に、ビルロート作曲の歌曲『死への憧れ』がございました。石野真帆さんのピアノで感銘深く歌ってくださったのは、バリトンの吉川健一さんでした。
重く、厳粛なタイトル、ブラームスによく似た曲調を持つこの曲の作曲者、ビルロートとは、ブラームスの伝記後半にしばしば登場する親友の外科医、テオドール・ビルロート博士のことです。たいへんな音楽好きで作曲もされていたとは存じ上げていましたが、作品を聴くのは初めてで、大変興味深く拝聴いたしました。
ビルロート博士はヨハネスより4歳年上、胃がんの画期的な手術法を開発されるなど、近代医学に大きな功績のある外科医で、ヨハネスとは深い敬愛を捧げ合ってイタリア旅行もともにしたほどの仲よしでした。ヨハネスは博士を「ビルロートは、人望を得る大きな素質も小さな素質もすべて具えていました」と評しています。お二人は、風貌もちょっと似ていらっしゃいます。右がビルロート博士。
そんなビルロート博士の1894年2月6日の死は、ヨハネスを深く打ちのめしています。しかもその6日後に、彼の音楽のよき理解者である指揮者ハンス・フォン・ビューローがカイロで客死してヨハネスに計り知れない衝撃を与えました。そして2年後、96年5月20日のクララの死がそれに追い打ちをかけるのです。他にも、彼の晩年は、親しい人たちとの別れの連続でした。そのたびに肩を落とし、老けゆくヨハネス。家族のいない彼にとって、これらの人々を次々と喪う痛手は、計り知れないものでございました。
精神の落ち込みだけではなく、実は 肝臓がんが密かに進行していたのです。
1897年4月3日の朝8時30分、ウィーンの自宅で、ヨハネス・ブラームスは、幸いにもあまり苦しむことなく、クララや友人たちのもとへと旅立ちました。
あと一か月永らえて、5月7日が来れば64歳になれるところでした。
2022年4月4日記
コメント