モーリス・ラヴェルは、1937年の本日1228日、62歳で神に召されました。晩年数年間の彼は、今もはっきりとは特定されていない病の進行に悩まされていました。

 1932年、彼は映画会社からの依頼により、シャリアピンを主役とする映画『ドン・キホーテ』の音楽を他の音楽家と共に書くことになりましたが、不誠実なプロダクションのためにこの計画は流れ、彼の書いた『ドゥルネシア姫に思いを寄せるドン・キホーテ』だけが残りました。そんなさなか、彼はパリでタクシーに乗っていて交通事故に遭っています。

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それ以前から、ごく軽微な記憶障害の兆候があったと言われますが、事故を境に次第に動作が緩慢になり、文章や楽譜の筆記が困難になっていき、頭の中に明瞭に音楽が鳴っているのに、それを書き留める手段を失っていきました。短い手紙1本書くのに、ラルース辞典の助を借りながら1週間もかかったと、彼は友人に打ち明けています。

音楽会へ出掛ければ、サイン攻めにあいますが、彼はもう、お手本なしではサインも出来なくなり、ついには文字も書けなくなります。友人たちが彼を取り囲み、サインをねだるファンから彼を守りました。

ある時はコンサートで『左手のための協奏曲』を聴いて、隣にいたピアニストのジャニーヌ・ヴェイユに、ささやきました。

「本当に、僕の作品なの?」

 それでも、ラヴェルの意識ははっきりしていました。

 長年の朋友、マルグリット・ロンは、そんな彼の様子をこう綴っています。

----- 彼の劇的な一部始終を見ていない人々には、ラヴェルのこの責め苦を実感することはできません。もう一人の自分が滅びゆくのに立ち会いながら、なおもこの試練の中で揺るがぬ誇りと勇気を持ち続ける、意識明瞭なラヴェルの責め苦を。-----

 ロンが彼を、「あなたはこれまでに多くの素晴らしい仕事をしているのだから、くよくよしないでね、今にきっとよくなるわ。ヴェルディが80歳で『ファルスタッフ』を書いたことを思ってもみなさいな』と励ましますと、彼は絶望的に反論しました。

「どうしてそんなことが言えるの?僕は何も書けなかったし、何も残していないんだよ。僕は言いたかったことを、全然言っていないんだよ」

 主治医は彼の脳腫瘍を疑い、ラヴェルには「検査」と取り繕って入院させます。病院で彼は、

「僕をおうちへ連れ帰ってください」と哀願して、ナースたちの涙を誘っています。

 手術は、19371219日におこなわれました。でも、腫瘍は見つからなかったのです。

そして、「オーケストラの魔術師」と呼ばれたこの天才作曲家は、昏睡したまま意識を取り戻すことなく、1228日に卒然と逝きました。
 若き日に、あまりに鬼才すぎ、斬新すぎる作風を旧弊な楽壇長老たちに警戒されて、何度も何度もローマ大賞を落とされた理不尽もさることながら、永眠に至るこの晩年の経過もあまりにお気の毒で、不条理過ぎると、この文を書きながら、目が潤んでまいりました。合掌・・・。

                               2021年1228日記