本日5月1日は、アントニン・ドヴォルザークのご命日でした。1841年9月8日、チェコ西部ボヘミアの小村ネラホセヴェスに生まれ、1904年5月1日にプラハ近郊の自宅で世を去ったこの大作曲家といえば、1892年から95年のアメリカ時代に生まれた一連の傑作、交響曲第9番『新世界より』、弦楽四重奏曲第12番『アメリカ』、チェロ協奏曲ロ短調、があまりにもよく知られていますが、彼には別の一面もありました。創作分野としては、アメリカから帰国後の晩年にオペラでの成功を目指していたことがあげられます。その代表作が、先日ご紹介した『ルサルカ』でした。  
 もう一つは、作曲家ドヴォルザークを大成させた陰に、アンナ夫人の内助があったという私生活上の一面です。
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 小さな村にただ一軒の、ホテル兼肉屋の長男として生まれた彼は、肉屋のあとを継ぐために、ドイツ語の勉強に励みます。そのドイツ語の先生が優秀な音楽家でもあったことから音楽に開眼し、プラハの音楽学校に進みます。卒業後、洗うが如き赤貧に耐えながら、音楽の個人レッスンをしていた生徒の中に、金細工師の娘、チェルマーコヴァー姉妹がいました。姉のヨゼファは、10本の指に求婚者が10人ずつとまる、といわれたほどの人気女優で、ドヴォルザークもその100人のうちの一人でしたが、彼は残念ながら、不運な99人の一人となりました。
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 そんな彼を慰め励まし、温かく応援してくれたのが、ヨゼファの妹アンナでした。アルト歌手として合唱団に加わっていた彼女は、ドヴォルザークの出世作『白山の後継者たち』の合唱を担当したことから彼と恋に落ち、結婚したのです。
  当初二人はまことに貧しく、ドヴォルザークは教会オルガニストのアルバイトをし、アンナは合唱の仕事で家計を支え、なんとか貧乏所帯を維持します。そうした中、3人の子宝に恵まれましたが、なんと、不幸な状況が重なり、3人は相次いで世を去ってしまいます。
 愛児3人の連続死。この悲嘆の淵で書き上げたのが、わが子が十字架につけられた聖母の悲しみに自らの心情を重ね合わせた傑作『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』でした。彼とアンナは互いに励まし合い、このあまりに悲惨な出来事を乗り越えました。神は二人の懸命な生き方を祝福して、その後、6人の愛児を授けてくださいました。アンナはその6人を立派に育て上げます。この温かな家庭に支えらてドヴォルザークは大成するのです。それにしても、彼の星か高く輝くのはまだまだこれからだというときに、無名作曲家の才能と明日を信じて、すべてを委ねようとしたアンナ夫人の存在あってこそ、彼は国際的大作曲家の仲間入りを果たすことができたのでした。
                                    2021年5月1日記