元旦、恩師クリストファ・N・野澤先生のお墓に詣でました。

 世界的なレコード研究家・コレクターであられた先生のお宅を初めてお訪ねしたのは、拙著『幸田姉妹』を上梓してまもない、2003年の初夏のことでした。先生は小柄の気品あるインテリ紳士で、全室資料でいっぱいのお宅の中をブルージーンズ姿で身軽に歩き回られ、高い棚の上の資料も少しも面倒なお顔をなさることなく、踏み台の上にひらりと飛びのられて、次々と取り下ろしてくださるのでした。そして、それら稀少音源を、時間のたつのもお構いなしに次から次へと名器クレデンザで聴かせてくださるのです。何と、ありがたく、贅沢な個人レッスンだったことでしょう。

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          2008年夏にお宅の近くのレストランでごちそうになったときのツーショット

 その後、『田中希代子』の評伝を執筆するに際しても、たびたびお訪ねしてご教示を仰ぎました。先生はいつも貴重な資料類を惜しみなく提供してくださるばかりか、興がのると、ご自身が若い頃録音されたモーツァルトのヴァイオリン協奏曲や、口笛によるオーケストラとの協演曲なども聴かせてくださいました。

次の評伝『諏訪根自子』の執筆中には、根自子さん全盛期の主要演奏会のプログラムや今では入手不可能な音源のご提供も受けました。それも、こちらからおねだりしないうちに「よかったら参考に」という謙虚なお手紙とともに送ってくださったことを思い出します。

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                   2010年5月、東京文化会館でのコンサート帰りに

 最後にお世話になったのは、20139月に小学館の企画で実現した没後80年記念出版『宮澤賢治の聴いたクラシック』の監修をお引き受けいただいたときでした。

 賢治の80回目の命日は2013921日。この日までになんとか発刊に漕ぎつけたいと、猛暑と闘いながら最終校正を進めていた813日、先生は完成本を手にとられることなく、旅立ってしまわれました。享年89

その少し前から、めっきり弱られて「この夏を越せるかしら」と、先生らしくないお言葉をつぶやかれたときいていたので、青天の霹靂ということはありませんでしたが、せめて、本ができ上るまでお元気でいらしていただきたかったと、暗澹たる思いでした。

先生は独身でいらしたので、膨大な野澤コレクションは東京藝術大学に移管され、おうちとお墓はご高齢のお兄様が引き継がれたのですが、そのお兄様も昨年、先生と同じ世界の住人となられました。お兄様もおひとりでしたから、『野澤家之墓』をまもるお方が絶えました。そのため、墓地の規定により、『野澤家之墓』は、もうすぐ取りかたずけられるのだそうです。

そのことを、先輩弟子の田中隆雄氏よりお知らせいただきましたので、その前に、新年のご挨拶をさせていただこうと詣でた次第です。昨年初夏にお参りした時は丈の高い野草に覆われていて、お掃除に苦戦いたしましたが、昨日はきれいさっぱり取り除かれていました。もう、花活けも除去されていましたため、やむなく、お花は台座に横たえました。

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 墓碑のお別れの日が近いからかもしれません。残念ですが、血縁でない者には、なすすべもありません。

でも、先生の思い出と貴重な教えは、きっと、多くの教えを受けた者たちの中に生き続けることでしょう。その末席の一人として、たとえ、墓碑はなくなっても、折りに触れては御恩を噛みしめたいと思います。
                                             2021年1月2日記