「音楽家、作曲家、ピアニストとして、最近までバッハのゴルドベルク変奏曲は私のコンサートレパートリーやディスコグラフィーの中で、叶わぬ野望として長い間待ち望まれていたものです」と語るファジル・サイさんが、今年の2月から3月についにこの曲のレコーディングを果たし、このほどリリースなさいました。
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 ちょうど数日前に、ラン・ランさんの同曲をライヴ・コンサートで拝聴したばかりでしたので、サイさんなら、いったいどのように弾くのだろうかと興味しんしんで聴き始めました。
 まずはっとしたのは、アリアの第一音からしてとてつもない美音であったことです。ここしばらく、サイさんのコンサートを聴いていませんでしたが、そもそもこの方はクッションのよいふくよかな手をお持ちで、タッチの引き出しの豊富な方でしたから、思いのままの美音をピアノから引きだすことがお出来になる方だったことを思い出しました。
 全てのリピートを実行されていますが、リピートの2回目に装飾をつけることがほぼなく、つまり、凝った装飾によってご自分をアピールすることを極力避けておいででした。優れた作曲家でもあるサイさんなら、さりげない装飾によって聴き手の耳を引くことが可能でしょうに、それはなさらず、あくまでもシンプル、スマートに進まれます。
 では何によって、ご自分を刻印されているかというと、それはやはり、微細で精緻なテンポの揺らしとあざとさのないダイナミクス、各声部の徹底精査にもとづく、自在な独立性の実現でした。ブックレットに、サイさんが色鉛筆でカラフルな書き込みとアナリーゼを書き添えた楽譜が掲載されていて、その真摯な研究姿勢に打たれました。
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 また、テンポは総じて極めて速く、どの変奏も非常にリズミックで音色が明るいことも、いかにもサイさんらしいと感じました。3つある短調変奏さえも深刻な雰囲気になることなく、あくまでもそこにある変奏の一つとして自然体で処理しておられました。
 こうして聴きますと、これはあきらかに、睡眠導入音楽などではなく、眠れぬ夜を積極的に楽しむための耳への極上の贈り物にほかならないのでは、と思えてまいりました。
                                  2022年11月22日記